2025年安息日学校ガイド第2期 「聖書の預言の学び方」 |
2025年2期13課「終末の比喩」
【今週のテーマ】
今週は、ヨナの物語とペルシャ王キュロスがバビロンからユダヤ人を解放する場面から、終末とのつながりを学んでいきます。
【日・反抗的な預言者】
律法学者とファリサイ派の人々がイエス様に、「しるしを見せてほしい」と言ったことがありました。すると主は、「よこしまで神に背いた時代の者たちはしるしを欲しがるが、預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。つまり、ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、大地の中にいることになる」(マタイ12:39,40)と答えられました。ヨナの物語といえば、大きな魚の腹の中で三日三晩過ごす物語としてよく知られていますが、そのことからキリストも同様に十字架で殺された後、三日間墓の中にいて、その後復活する。それがしるしであると言われたわけです。ところで、ヨナは魚の腹から吐き出された後、主が命じられた通り、アッシリアの首都ニネベの町に行って神の裁きが近づいていることを告げ、ニネベの町に大リバイバルをもたらします。これは終末時代の残りの民の運動を指し示しています。ヨナが難破しそうになった船の上で、何者かと尋ねられたとき、「わたしはヘブライ人だ。海と陸とを創造された天の神、主を畏れる者だ」(ヨナ1:9)と答えるのですが、この表現は、第一天使のメッセージとよく似た言葉です。私達も同様に、創造主なる神を礼拝するものであることを示し、それを告げ知らせることが、終末時代のメッセージの中心となるのです。そして、悔い改めて、多くの人々が安穏と暮らしているサタンが支配する世界から離れるようにと伝えなければならないのです。しかし、このメッセージは、多くの否定的な反応を引き起こすことでしょう。ヨナがはじめニネベの人々を恐れて逃げたように、私達も恐れてしまうかもしれません。しかし、私達が本当に恐れるべきは人ではなく、主なる神であり、主に用いられること自体が畏れ多いことなのです。
【月・悔い改めの業】
ヨナはニネベの町を歩き回りながら、『あと四十日すれば、ニネベの都は滅びる』」(ヨナ3:4)と叫びました。町中を歩き回ったので、多くの人がヨナの叫びを耳にしました。すると驚くべきことにニネベの町の人々がヨナの言っていることを信じて、「神を信じ、断食を呼びかけ、身分の高い者も低い者も身に粗布をまとっ」(ヨナ3:5)て悔い改めたのでした。さらに、「このことがニネベの王に伝えられると、王も王座から立ち上がって王衣を脱ぎ、捨て、粗布をまとって灰の上に座し」(ヨナ3:6)、人々に断食を命じたのでした。こうして、町全体が徹底的に悔い改めたのでした。その結果、どうなったでしょう。なんと、「神は彼らの業、彼らが悪の道を離れたことを御覧になり、思い直され、宣告した災いをくだすのをやめられた」(ヨナ3:10)のでした。真の悔い改めは、神の怒りを鎮め、裁きを思い直させたのです。これと同様に、私達が最終時代のメッセージを語ることによって、多くの人々が罪を自覚し、悔い改めへと導かれ、滅びから救いへと変えられていくことでしょう。このようなリバイバルが来るのを1日でも早く見たいものです。ただ、それでも終末に起こる諸事件とキリストの再臨に伴う裁きを止めることはできません。残されている時間の限り、一人でも多くの人たちが悔い改めて主に立ち返るように導くことが、教会の使命なのです。
【火・ベルシャツァルの宴会】
バビロンのネブカドネツァル王は、高慢になった瞬間、人間の心を失って獣のようになり、本当にみじめな姿に変わり果ててしまいました。そうなることを夢で示されていたにもかかわらず、高慢な心を打ち砕くことができませんでした。正気に戻ったのは、実に7年の時を経た後でした。王は目を上げて天を仰ぐと理性が戻って来たのです。我に返った王は、「天の王をほめたたえ、あがめ、賛美する。その御業はまこと、その道は正しく、驕る者を倒される」(ダニエル4章34節)と言って、信仰を表しました。バビロンの王はダニエルという神の預言者がそばにいたおかげで、どれほど祝福されたことでしょう。さて、父の姿を小さいときからそばで見ていた息子のベルシャツァルが王となったある日、千人の貴族を招いて大宴会を開きます。その際、父がエルサレムの神殿から持ち帰った金銀の祭具を使って、酒を飲み始めたのです。そして、偶像の神々をほめたたえたのです。すると、突如、人の手の指が現れて、白い壁に文字を書き始めたのです。ベルシャツァルはそれを見て腰が抜けるほど恐怖に襲われました。そこには「メネ、メネ、テケル、パルシン」と書かれてあり、それはベルシャツァルの治世は終わり、バビロンはメディアとペルシャに二分されるというものでした。これを解き明かしたのは、やはりダニエルであり、ベルシャツァルが国を失うことになったのは、神を恐れず、高慢であったがためでした。父ネブカドネツァルの失敗から十分に学ぶ機会がありながら、それを怠った代償を実に大きいものとなったのでした。
【水・ユーフラテス川を干上がらせる】
バビロンがキュロス王率いるメディアとペルシャの連合国によって滅ぼされたのは、歴史家ヘロドトスによると、「それは祭りの時期であり、誰もが踊り、快楽にふけっていたため、郊外が崩壊したことをまったく知らなかった」(『歴史』第1巻191、英)ようで、まさにそれはベルシャツァルが千人の大宴会を催していたときのことだったと推測されます。メド・ペルシャはバビロンの人々が酒に酔いしれているとき、城壁を囲んでいたユーフラテス川の水をせき止めて、城壁の下から一気に進軍したと言われています。まさに不意を突かれた形で国が滅びていくのです。これと同様に、この世界が終わるときも、同じような状況の中で終わりが訪れると預言されています。黙示録16章12節に、「第六の天使が、その鉢の中身を大きな川、ユーフラテスに注ぐと、川の水がかれて、日の出る方角から来る王たちの道ができた」とあります。そして、善と悪との地上における最後の戦いである「ハルマゲドンの戦い」に突入していきます。サタンの都の象徴であるバビロンが不意を突かれる形で滅びていったように、この世界も、不意に最後がやってくるのです。それゆえ、キリストは何度も繰り返し、「見よ、わたしは盗人のように来る。裸で歩くのを見られて恥をかかないように、目を覚まし、衣を身に着けている人は幸いである」(黙示録16章15節)と警告しておられるのです。
【木・油を注がれた人キュロス】
バビロンを滅ぼして、ユダヤ人を捕囚から解放し、エルサレムへの帰還を実現させたキュロス王のことを、イザヤ45:1で「油注がれた人」と表現しています。それはやがて天から戻って来られ、この地上の束縛から解放し、天の御国、天のエルサレムへと連れ帰ってくださるキリストの働きを予型しているからです。このキュロス王については、歴代誌下36章22、23節において、次のように記されています。
「ペルシアの王キュロスの第一年のことである。主はかつてエレミヤの口を通して約束されたことを成就するため、ペルシアの王キュロスの心を動かされた。キュロスは文書にも記して、国中に次のような布告を行き渡らせた。「ペルシアの王キュロスはこう言う。天にいます神、主は、地上のすべての国をわたしに賜った。この主がユダのエルサレムに御自分の神殿を建てることをわたしに命じられた。あなたたちの中で主の民に属する者はだれでも、上って行くがよい。神なる主がその者と共にいてくださるように。」
実は、旧約聖書の書巻の順序は、現代ではマラキ書で終わるように変更されていますが、本来、旧約聖書は、キュロスのこの宣言で終わっていたようです。そして、マタイによる福音書のキュロスの対型であるキリストの誕生に続くようになっていたようです。聖書は1500年にわたって書かれたと考えられていますが、そのつながりは驚くばかりです。
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