2025年安息日学校ガイド第2期 「聖書の預言の学び方」 |
2025年2期2課 「基礎となる創世記」
【今週のテーマ】
黙示録は、旧約聖書の知識を前提としており、黙示録を理解する鍵となっています。特に創世記には黙示録の重要な概念が含まれており、今週はそのいくつかを学びます。
【日・「最初の言及」の原則】
創世記には聖書の概論的な役割があります。創世記を知らなければ、この世界の始まりも、罪の起源も、そして救いの本質もわかりません。ところで、聖書の中で初めて、ある概念について言及された場合、そこで、その概念の一般的な意味や解釈が確立され、後の聖書理解に役立てることができます。その意味では、聖書の最初の書である創世記には、多くの重要な聖書の概念や教えの最初の言及があり、それゆえ、創世記は単に概論的な役割だけでなく、ここを土台として、さらに他の聖書箇所の理解を深めていけることがわかります。主なる神様は、「まことに、主であるわたしは変わることがない」(マラキ3:6)と言われ、また、 「草は枯れ、花はしぼむがわたしたちの神の言葉はとこしえに立つ」(イザヤ40:8)と語っておられます。数千年にわたって、人類はこの神の言葉を学び続けてきましたが、それが可能なのも、時代によってその教えが変わることがないからです。まずは、聖書の概論的創世記をよく学び、それを土台として、この永遠に変わることのない聖書のみ言葉の理解を、より深め、より確かなものとしていくのは正しい方法です。
【月・神の愛を理解する】
聖書の預言を理解する上で鍵となるのは、愛の本質を正しく理解することです。なぜなら、大争闘における重要な主題の一つが、神のご品性、すなわち神の愛に対する大きな誤解だからです。悪魔は神様の愛を誤解させ、私たちを神様の愛から遠ざけようと猛烈に働きかけてきます。だから、預言を学ぶにあたっても、神の愛を正しく理解することなしに進めていくと、間違った方向へと導かれていく危険があるのです。聖書の中でこの神の愛について最初に言及されているのは、創世記22:2です。神はアブラハムに、「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい」と命じられます。これは神がアブラハムの信仰を試されたわけですが、イサクを必ず復活させてくださると信じたアブラハムの信仰を神は義と認められ、最終的にはイサクに手をかけることを神は止められたのでした。さて、創世記22:2のどこに神の愛が言及されているのでしょうか。私たちは、イサクを捧げるのを止められた神は、やがて、神のひとり子なるイエスを、人類を贖うために捧げられることを知っています。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」ヨハネ3:16
アブラハムに止めさせたひとり子イサクを捧げるという行為を、神ご自身がなさった。これは偶然ではありません。アブラハムのイサクを捧げる物語が、キリストの十字架に輝く神の愛と一つにつながっていくとき、神の愛の大きさを私たちはより深く知るのです。神の愛、それは人類を救うために、ひとり子の命さえおしまない愛なのだということです。また、御子イエス・キリストご自身も、自らの意思で、人間を救うために十字架におかかりになったのです。このような神の愛が、預言の中にも常に流れているのです。
【火・イサクの質問―「小羊はどこにいるのですか」】
聖書が初めて「小羊」(ヘブライ語の「セー」*子羊ではない)に言及するのは、愛について初めて言及している創世記22章の同じ物語の中で、イサクがアブラハムに、「小羊はどこにいるのですか」(創22:7)と問いかけた場面においてです。このイサクの問いかけに対して、アブラハムは「わたしの子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる」(同8)と答えることしかできませんでしたが、興味深いことに、聖書自身が、この後、このイサクの質問に少しずつ答えていくことになるのです。「小羊」という言葉は、やがてイエス・キリストを象徴する言葉として用いられるようになるわけですが、イザヤは「ほふり場にひかれて行く小羊のように」(イザヤ53:7口語訳)とキリストを預言し、バプテスマのヨハネは、歩いてこられるキリストを見て、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」(ヨハネ1:29)と叫びました。こうして小羊なるイエス・キリストは、肉体を取って地上に来られ、自ら十字架で命を犠牲にされたときに、イサクの「小羊はどこにいるのですか」という質問は答えられるのです。やがてこの小羊は黙示録の天の光景の中に繰り返し登場します。王の王として天におられ、数多くの賛美を受け、七つの巻物の封を解き、終わりの扉を開いていかれるキリストが、屠られた小羊として描かれていくのです。
【水・死と向き合う】
小羊なるキリストは、私たちを救うために、私たちの罪の身代わりとなって死んでくださいました。そもそも死とは何でしょうか。しばしば、「死は生の一部である」と言われますが、それは「死」のはじまりを知らない人たちの間違った考えです。死は生の対局であり、生の破滅であり、本来、私たちが経験するはずのないものでした。死は罪によってもたらされました。このことは、聖書の最初にしるされていることであり、ゆえに、私たちがまず知らなければならない事なのです。罪が最初の死をもたらすまで、アダムとエバは、死の絶望的な悲しみをあまり深く考えていなかったもしれません。そもそも死とは何かすら、彼らにはわからなかったのですから。人類最初の死、それは大切な子供の上にもたらされました。兄のカインが弟のアベルを殺してしまったとき、アダムとエバはどれほどの悲しみに襲われたことでしょう。子供を失うことほど大きな悲しみはありません。しかし、それはすべて、自分たちの罪がもたらしたのでした。そして、その死はやがて人類すべての上に臨むことになり、ついに神の御子の命まで奪うこととなったのです。私たちが死と向き合うとは、自分の罪と向き合うことであり、そして、神の御子イエス・キリストの死と向き合うことでもあるのです。
【木・蛇】
黙示録12:7、8
「さて、天で戦いが起こった。ミカエルとその使いたちが、竜に戦いを挑んだのである。竜とその使いたちも応戦したが、勝てなかった。そして、もはや天には彼らの居場所がなくなった。」
黙示録に出てくる「竜」は悪魔を象徴しています。竜は蛇を神格化させたものと言われていますが、なぜ悪魔の象徴が竜なのかということについて、やはり創世記が鍵となります。悪魔は天において神に反逆したことによって、天を追い出され、地に投げ落とされます。地に投げ落とされた悪魔は、すぐに人間にもとに近づき、自分と同じように、神を裏切るよう誘惑してきます。創世記3章を見ると、そのとき悪魔は蛇の姿で人間に近づいてきました。なぜ蛇の姿をとったのかというと、野の生き物の中で一番賢かったからだと聖書は言います。このように創世記を見ると、悪魔が蛇の姿で人間を誘惑してきたことが元となって、黙示録では蛇を神格化させた竜として象徴されているのだとわかるわけです。黙示録12:9では、「この巨大な竜、年を経た蛇、悪魔とかサタンとか呼ばれるもの、全人類を惑わす者」と、まとめるようにして悪魔が呼ばれています。神様が永遠に変わることのない方であるように、悪魔も変わることがありません。この神と悪魔の大争闘も最後まで変わることがありません。6000年におよぶ人間の歴史において、この神からのメッセージは、何一つ変わっていません。このことは私たちが古い書物である聖書をいまもなお学び続ける正しい動機となっているのです。
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