2025年安息日学校ガイド第2期
 「聖書の預言の学び方」

2025年2期3課 「結婚の比喩」

 

【今週のテーマ】

今週は神がお定めになった結婚制度を通して、その中に隠された霊的真理を学び、また預言の理解を深めていきます。

 

【日・一体】

 

創世記224「こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる」

 

結婚は、人間の幸福のために神様が定められた制度です。「一体」という言葉は、原語のヘブライ語では、「バーサール・エハッド」という言葉が使われていますが、「バーサール」は「良い知らせを伝える」という意味の言葉から派生しており、「一つ」を表す「エハッド」と合わさって「一体」と訳されています。つまり、男と女が結ばれて一体となるというのは、良い知らせ、福音であり、幸福の基となるものなのです。そして、ここには霊的な奥義が隠されており、パウロはエフェソ531で「それゆえ、『人は父と母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる』。この神秘は偉大です。わたしは、キリストと教会について述べているのです」と書いています。結婚は、教会に連なる私たち一人ひとりとイエス・キリストとの関係を霊的に教えているのです。キリストと結ばれ一つとなる。ここにこそ福音があり、人間の喜びと幸福があるということです。それゆえ、悪魔は人間の夫婦関係を壊そうと働き、キリストとの結びつきをも引き離そうとするのです。

 

【月・美しい花嫁】

 

エゼキエル16章に、神とイスラエルとの関係を結婚という比喩を用いて書かれています。ところが、その結婚に至るまでの過程で表されたイスラエルの姿は、実にみじめで、弱弱しいものでした。

 

「誕生について言えば、お前の生まれた日に、お前のへその緒を切ってくれる者も、水で洗い、油を塗ってくれる者も、塩でこすり、布にくるんでくれる者もいなかった。だれもお前に目をかけず、これらのことの一つでも行って、憐れみをかける者はいなかった。お前が生まれた日、お前は嫌われて野に捨てられた」(同16:45

 

生まれたばかりの弱弱しい赤ちゃんの姿で描かれたイスラエルは、誰も世話をしてくれるも、憐みをかけてくれる人もおらず、野に投げ捨てられ、死を待つばかりの状態でした。これは、エジプトで奴隷であったことを示していると考えられますが、私たちも同様に神と出会う前は、無力で弱く汚れたものであったということです。

 

「しかし、わたしがお前の傍らを通って、お前が自分の血の中でもがいているのを見たとき、わたしは血まみれのお前に向かって、『生きよ』と言った。血まみれのお前に向かって、『生きよ』と言ったのだ。(同16:6

 

神は生まれたばかりの赤ちゃんが血にまみれてもがいているようなイスラエルに自ら近づき、そして「生きよ」と言われます。生命への希望が生まれます。主の御心は私たちが真の命に生きることであることがわかります。しかも、生きるとは、主と共に、永遠の命に生きるということです。「生きよ」と言われた神は、イスラエルを「野の若草のようにお前を栄えさせ…健やかに育」(同167てます。そして、「衣の裾を広げ…掛け(結婚の儀式の一つ)、裸を覆っ」てあげた後、こう言われるのです。「わたしはお前に誓いを立てて、契約を結び、お前はわたしのものになった」(同168

神と人との正しい関係が結婚に例えられるとき、外に捨てられ死んでいく他なかった命が、神に拾われ、育てられて成長し、主の衣で覆われて、ついに結婚に至る。つまり、すべて神が私たちを主の花嫁、すなわち主に救われ、永遠の命に生きるものとしてくださるということです。しかし、「それなのに…」と続くのです。

 

「それなのに、お前はその美しさを頼みとし、自分の名声のゆえに姦淫を行った。お前は通りかかる者すべてにこびを売り、身をまかせた」(同16:15)。

 

神様の恩寵のゆえに守られ繁栄してきたにも関わらず、民たちはそれをまるで自分の力、自分の功績のように思い、王の花嫁であるべきはずのものは、道行くものにこびを売る娼婦のようにふるまうのでした。それはまさに、霊的姦淫であり、神に対する不貞、裏切りでした。

 

【火・ホセアの淫らな妻】

 

神は民の不貞行為をどのような思いで受け止められたのでしょうか。この神の気持ちを理解させるために、神は預言者ホセアに、ふしだらな女を妻にめとるように言われるのです。ホセアは妻の行為によって苦しめられることになるのでした。

ホセア12 「主がホセアに語られたことの初め。主はホセアに言われた。「行け、淫行の女をめとり、淫行による子らを受け入れよ。この国は主から離れ、淫行にふけっているからだ。」

 

ホセアの結婚生活は理想からはほど遠いものとなりました。伴侶から裏切られたことのある人はもちろんのこと、そうでなかったとしても、ホセアの気持ちは容易に想像できることでしょう。そして、ホセアの気持ちは、そのまま主なる神の気持ちとして、私たちは理解しなければならないのです。神と結婚関係にある私たちも、繰り返し神を裏切り、霊的姦淫(神以外のものを愛すること)の罪を犯してしまうからです。しかし、それでも主はホセアに、「主は再び、わたしに言われた。「行け、夫に愛されていながら姦淫する女を愛せよ」(同3:1と言われるのです。このことは、神が何度も主を裏切ってしまうような私たちを赦し、それでもなお愛してくださるということです。ただし、そのままの状態で良いと言われません。黙示録18章で「バビロンから離れよ」とのメッセージが語られますが、これは言葉を換えれば、「主に立ち返れ」ということです。主は私たちが霊的姦淫の罪から離れ、ご自分のもとに戻ってくるのを待っておられるのです。

 

水・イサクとリベカ

 

アブラハムは息子イサクの妻を地元のカナンではなく、故郷の同族の女性から選ばせました。それは、カナン人は偽りの神々を礼拝し、道徳的に堕落していたため、もしイサクがカナンの娘と結婚するなら、そういった悪い慣習の影響を受ける可能性があったからです。排他的に思えるかもしれませんが、これは重要なことでした。現代におきかえるなら、クリスチャン同士の結婚が望ましいということです。また、イサクとリベカの結婚から学べるもう一つのことは、二人を結び合わせたのは神様であったということです。アブラハムの命を受けてイサクのお嫁さんを探しに行った僕は、主に、「井戸の水を飲ませてくれた人がイサクのお嫁さんとお決めください」と祈ると、最初にやってきたのがリベカで、そして井戸の水を飲ませてくれたのでした。結婚は、実生活においても、霊的な意味においても、非常に重要なことなのですから、今まで以上に神に御心の伴侶が与えられるように祈り求めることが重要なのです。

 

【木・淫婦は裁かれる】

 

霊的な意味において、結婚はキリストと結ばれ一つとなることを表しており、姦淫はキリスト以外のものを愛し、キリストとの関係を壊すことを意味しています。黙示録のクライマックスは、天における婚宴から始まります。天において婚宴が開かれようとしているのです。それは「小羊の婚宴」、つまりイエス・キリストとの婚宴であり、この婚宴にキリストの花嫁として招かれている者は幸いだと聖書は言います(黙示録19:9)。キリストは花嫁である救われるべき聖徒たちを迎えに、天から間もなく戻ってこられます。方や、「みだらな行いで地上を堕落させたあの大淫婦」は裁かれると言います(同19:2)。小羊の婚宴に招かれていながら、自らそれを放棄することは、本当に愚かで、悲しむべきことです。さて、通常結婚の準備はいろいろと大変なものですが、でもそこには喜びと幸せがあります。キリストとの霊的結婚も同じかもしれません。最後の準備の段階に入ってきている今、大変なこともあるかもしれませんが、天の婚宴に招かれていることを心から喜んで準備したいと思います。

 

 


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