2025年安息日学校ガイド第2期 「聖書の預言の学び方」 |
2025年2期6課 「犠牲を理解する」
【今週のテーマ】
今週は、一見残酷に思える犠牲制度の意味について学びます。
【日・無益な犠牲なのか】
イスラエルの民がささげる神への犠牲を、神が拒絶される場面が何度か出てきます。最初に出てくるのは、カインの場面です。神が求めたのは贖い主キリスト象徴している雄羊の初子でしたが、カインは自分の力を誇るかのように、畑の収穫物を持ってきたのです。それはまるで自分の力で救いを勝ち取ろうとしているかのようでした。当然、神はそれを拒絶されました。その後、神が民のささげ物を主が拒絶する場面においては、ささげる物自体ではなく、ささげる民の態度を問題とされました。たとえば、イザヤ書1章2節で、「天よ聞け、地よ耳を傾けよ、主が語られる。わたしは子らを育てて大きくした。しかし、彼らはわたしに背いた」と主が語られた後、同15節で「お前たちが手を広げて祈っても、わたしは目を覆う。どれほど祈りを繰り返しても、決して聞かない。お前たちの血にまみれた手を」と続きます。つまり、神に背く者が、悔い改めることなく、どれだけ神に祈り、犠牲をささげたとしても、主はそれを拒まれるということです。形骸化された信仰を神は悲しまれます。ここに私達の祈りが聞かれないことがある理由の一つがあります。それに対して、詩編51編19節では、「しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を、神よ、あなたは侮られません」と教えられており、神は形ではなく、私達の打ち砕かれた心を求めておられるのがわかります。そして、「…主に仕え、主の名を愛し、その僕となり、安息日を守り、それを汚すことなく、わたしの契約を固く守るなら」、彼らのいけにえを受け入れると言われました(イザヤ56:6,7)。神様が私達に何を求めておられるのか、それを正しく理解し、正しく行動することが大切です。
【月・雄牛と山羊の血】
犠牲制度は残酷だと主張する人たちがいます。それはある意味正しいことです。動物をささげることが残酷であるがゆえに、それが象徴していることに目が向けられるのです。犠牲の動物はすべて十字架で死なれるキリストを象徴していました。それは残酷で、不当なものでした。罪なき者が罪ある者のために死なれたのですから。しかし、人類の罪の問題を解決するためには、罪なき神の御子の命が必要だったのです。犠牲の動物には何の力もかく、それはただ、来るべきキリストを象徴していたに過ぎなかったからです。それゆえ旧約の犠牲制度は、十字架上のイエスの死を預言するものであったわけです。さて、このことについて、へブル10:5で、「いけにえも供え物も、あなたは望まず、私のために、体を備えてくださった」と、詩編40編7節のみ言葉を引用して説明しています。「私のために、体を備えてくださった」とは、キリストの受肉を表した預言ですが、この「備える」というギリシア語「カタルティゾー」には、「繕う、修繕して完全にする」という意味があります。つまり神が、からだを備えられたその目的は、人間に与えられたからだを修繕して、完全にするためです。このために、イエスの「からだが備えられた」のです。
【火・過越の小羊】
「知ってのとおり、あなたがたが先祖伝来のむなしい生活から贖われたのは、金や銀のような朽ち果てるものにはよらず、きずや汚れのない小羊のようなキリストの尊い血によるのです」(Iペト1:18、19)
「きずや汚れのない小羊のようなキリスト」とあるように、子羊はキリストを象徴しており、黙示録には30回近くも出てきます。小羊が来るべきキリストを象徴していることを示す物語として、印象的なのは出エジプトの場面です。10番目の災いがエジプトに臨む前に、人であれ、動物であれ、すべての初子を贖うために、1歳の傷のない雄の小羊を用意し、それを屠り、その血を家の入り口の二本の柱と鴨居に塗るよう神は命じられました[u1] (出エジプト12:1~12)。その夜、神の裁きがエジプト全土におよび、柱と鴨井に子羊の血が塗られていない家では長子が死に、血が塗られている家では神の裁きが過ぎ越して行ったのでした。この出来事は、子羊の血によって神の裁きが通り過ぎていったように、キリストの十字架の血を信じる者たちは、そのキリストの血によって、神の裁きから免れ、救われることを象徴していたのでした。イエス・キリストは、「最後のアダム」(Iコリ15:45)として罪に勝利し、人類があるべき模範を示され、また、父なる神の栄光を表す者として(「わたしを見た者は、父を見たのだ」ヨハ14:9)、この世に来られたのと同時に、犠牲の小羊が象徴する人類の罪の身代わりとなるために人として、この地上に来られたのです。
【水・神殿のイエス】
最初の神殿がソロモンによって奉献されたとき、神の臨在のしるしであるシェキーナ(雲のようなもの)が神殿を満たし、祭司たちが奉仕を続けられないほどでした(王上8:10、11)。ところが、バビロンから帰還し、苦しい状況の中で民が一つとなって第二神殿を完成させたとき、神の玉座、そして神の臨在を象徴する契約の箱が行方不明になっており、第一神殿のときのように、神の臨在(シェキーナ)が神殿を満たすことはありませんでした。それにもかかわらず、ハガイは、2章9節で、 「この新しい神殿の栄光は昔の神殿にまさると万軍の主は言われる。この場所にわたしは平和を与える」と万軍の主は言われる」と預言しました。どのようにして、この約束が実現するのでしょうか。それは受肉された神キリストにおいてでありました。キリストがあらわれたのはこの第二神殿でありました。神の御子は、人となり、私たちに見える形、聞こえる形で来てくださいました。至聖所の中にとどまるのではなく、そこから出て、人々の中に入って来られたのです。そして、さらに今や、私たち一人ひとりを神殿として、その中にキリストは聖霊という形で住んでくださっています。まさに「新しい神殿の栄光は昔の神殿にまさる」と預言された通りです。
【木・あなたは万物を造られたからです】
イザヤは天の玉座の光景を見せられた預言者の一人です。ヨハネも黙示録において自分が見せられた天の玉座の光景を描いています。共通していることは、最初に天にいる存在が、神の聖さを明確に示すということでした。たとえば、イザヤの幻の中では、天使セラフィムが「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。主の栄光は、地をすべて覆う」(イザヤ6:3)と、神の聖さを宣言すると、神殿は煙に満たされ、「入り口の敷居」が揺れました。ヨハネの幻の中では、天使ケルビムが同じように、「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな」と宣言しています。そして、いずれの預言者も、神の栄光のまばゆいばかりの光景を見せられました。次に、その光景を見た反応が共通して記されており、イザヤは、「わたしは汚れた唇の者」(イザ6:5)と叫び、ヨハネは、巻物の封印を解くのにふさわしい者が見当たらないと泣きます(黙5:4)。つまり、人間は、神の清さ、偉大さを前に、自分の汚れや無力さを理解し始めます。そして、救い主キリストを必要としているということを真に悟るのです。サタンは神に対して多くの非難を浴びせ、神は独断的で、利己的で、厳しいと主張してきます。しかし、神の栄光にふれたとき、サタンの嘘は暴かれ、むしろ、自分たちのほうがいかに罪深いものであるかがはっきりとわかるのです。そして、キリストの十字架に表された神の愛の大きさと、私たちにキリストが必要であることを思い知らされるのであります。ここにたどり着かせるために、主は犠牲制度を定められたのです。
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