2025年安息日学校ガイド第2期 「聖書の預言の学び方」 |
2025年2期7課 「預言の基礎」
【今週のテーマ】
今週は天の玉座の幻について学び、そこから罪汚れの清めと赦し、また神を中心に生きることの大切さを学びます。
【日・「わたしを遣わしてください」】
「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。しかも、わたしの目は王なる万軍の主を仰ぎ見た」イザヤ6:5
イザヤは、神の御座の驚くべき幻を見たとき、自分がいかに汚れているのかを痛感させられました。すると、セラフィムの一人が、祭壇から炭火を取り、それをイザヤの唇に触れさせて、「見よ、これがあなたの唇に触れたので、あなたの咎は取り去られ、罪は赦された」(イザヤ6:7)と宣言します。なぜ炭火を唇に触れさせたのでしょうか。炭には浄化作用があることはよく知られていますが、その炭火は、神の民のために執り成しがなされた祭壇から取られたものでした (黙8:3、4参照)。したがって、炭火は罪・汚れの清めと赦しを象徴していたのです。自分の罪・汚れに滅びるばかりだったイザヤが、その罪・汚れが清められた瞬間、主のみ声を聞きます。「誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか」。イザヤは迷うことなく、「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください」(イザヤ6:8)と答えるのでした。主は誰をご自分の代わりに遣わそうかと探しておられます。主によって罪赦され、清められた者は、この求めに答えることができるのです。
【月・2人のケルビム】
「こうしてアダムを追放し、命の木に至る道を守るために、エデンの園の東にケルビムと、きらめく剣の炎を置かれた。」創世記3:24
アダムとエバがエデンの園を追い出された後、命の木の実を食べ永遠に生き続ける罪人となることのないように、主はエデンの園の東にケルビムときらめく剣の炎を置かれました。この「置かれた」という原語の「シャカン」は、「幕屋(ミシュカン)」の語根となっている言葉です。このことから、「神はエデンの園の東でケルビムに宿られた」と読むこともでき、決して人間をエデンの園に侵入させないことだけを目的としたものではなかったのです。希望への光』33ページ(『人類のあけぼの』第4章)に、次のように書かれてあります。
「エデンの園は、人間がその楽しい道から追われた後も長く地上に残っていた。その入り口は警護の天使が守っているだけで、堕落した人類は、罪の入らなかったときの住居を長い間かいま見ることを許されていた。ケルビムが守っていた楽園の門には、神の栄光が現れていた。アダムとその子らはここに来て神を礼拝した。かつて、神の律法を犯したためにエデンから追放された彼らは、ここで神の律法に従う誓いを新たにした」。
私たちの希望は、万物が回復されて、『新しい天と新しい地』が出現するとき(黙示録21:1)、エデンの園よりももっと輝かしく飾られた新しい世界に入っていくことができることです。
【火・燃える炭火のように】
「その顔は人間の顔のようであり、四つとも右に獅子の顔、左に牛の顔、そして四つとも後ろには鷲の顔を持っていた」(エゼキエル1:10)
エゼキエル1章5‐12節にかけて、4つの生きものが描写されています。10章では、さらに詳しく描写されており、その生き物がケルビムであると書かれています。この4つの生き物には4つの顔があり、正面が人間、右側が獅子、左側が牛、後ろが鷲の顔をしていました。これらは人間、動物、家畜、鳥など地上の生物を代表しており、その上に主がおられることから、すべての被造物が主の栄光とご支配のもとにあるということを現わしています。また、人の顔は神様に似ており、愛や知恵を象徴、獅子は勇敢さや公正さを象徴、牛は豊かな収穫をもたらす力や権威を象徴、鷲の顔は迅速、遠くを見渡す知恵など象徴していると考えられ、ケルビムはそれらすべてを兼ね備えた存在であることを表しています。ケルビムは驚くべき存在でありますが、しかし、より重要なことは、その上に神の玉座があり、そこに人に似た神がおられることです(エゼキエル1:26)。4つの生きもの(ケルビム)は,神の下で仕えているのです。また、これに類似した天の生き物として、イザヤ書6章ではセラフィムが、黙示録4章ではケルビムともセラフィムとも取れるような生き物も出てきます。
【水・ご自分の民の中におられる神】
神が臨在される幕屋を中心に、東西南北に3部族ずつ分かれて宿営しました。また、東にユダ族、南にルベン族、西にエフライム族、そして北にダン族と、有力な部族が東西南北に1部族ずつ入っていました。これら有力な部族は、自分たちが何者であるかを示す独自の「旗印」を掲げていたのですが、ラビの言い伝えによれば、ユダの隊旗には獅子が描かれ、ルベンの旗には人、または人の頭のようなものが、エフライムの旗には牛が、ダンの旗には鷲が描かれていたようです。つまり、エゼキエルが描写した四つの生き物の顔が旗に表されていたのです。このことから、エゼキエル書のケルビム同様に、神を中心にして、神の民たちは生きていたことがわかります。天においても、地においても、神を中心に生きていくことが正しく、かつ重要なことであることを私たちは学ぶことができます。
【木・ルシファーの堕落】
ルシファー(悪魔が堕落する前の呼び名)は、もともとケルブ(ケルビムの単数形)として造られました(エゼキエル28:14)。そして、知恵に満ち、美しさの極みであったとも書かれてあります。ケルブとして造られたルシファーは、神の一番そば近くで仕えていました。それにもかかわらず、堕落しました。なぜそのようなことが起きたのでしょうか。聖書は、「お前の心は美しさのゆえに高慢となり、栄華のゆえに知恵を堕落させた」(エゼキエル28:17)と語っています。ルシファーの高慢な心は、ついには、「わたしは天に上り、王座を神の星よりも高く据え、神々の集う北の果ての山に座し、雲の頂に登って、いと高き者のようになろう」(イザヤ14:13、14)と言うほどにまでなってしまったのでした。これは私たち人間も同様です。神の子として自負していても、主のみ前にへりくだることを忘れるなら、悪魔と同じ心となり、同じ道を歩んでしまうことでしょう。
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