2025年安息日学校ガイド第2期
 「聖書の預言の学び方」

2025年2期8課 「詩篇における例1」

【今週のテーマ】

今週は黙示録の象徴を理解するにあたって、詩篇から学びます。詩篇と預言はあまり馴染みがない印象があるかもしれませんが、注意深く読むと、黙示録を生き生きしたものにさせる記述が見つかります。

 

【日・私たちの大祭司】

 

旧約時代、神はモーセに幕屋を造るように命じられましたが、適当なデザインで良いのではなく、「示された型に従い、注意してこれを造らなければな」りませんでした(出エジプト25:40)。示された型とは、より高次の現実、すなわち天にある聖所だったのです。

 「けれども、キリストは、既に実現している恵みの大祭司としておいでになったのですから、人間の手で造られたのではない、すなわち、この世のものではない、更に大きく、更に完全な幕屋を通り、雄山羊と若い雄牛の血によらないで、御自身の血によって、ただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです。」(ヘブライ91112

ヘブライ人への手紙9章を見ると、地上の幕屋は天にある聖所の型であったことがわかります。つまり、これに従って造られたのです。それと共に、地上の幕屋で捧げられた動物の血はキリストの十字架の血を、地上の大祭司の働きは、真の大祭司としての天におけるキリストのとりなしの働きを象徴していたこともわかります。地上の聖所は、すべてイエス・キリストについて語っていたのです。このことから、ヨハネが見た天の幻を理解するためには、旧約時代の聖所を学ぶことが重要になってくるわけです。また、詩篇においては、ダビデや神の民がいかに神殿(聖所)と関わり、どのような反応を示していたのかが記されています。そのこともまた黙示録を理解する上での助けとなります。

 

【月・シオンの山で】

 

ヨハネは、黙示録141節で、「小羊がシオンの山に立っており、小羊と共に十四万四千人の者たちがいて、その額には小羊の名と、小羊の父の名とが記されてい」るのを見ます。シオンの山とは何を表しているのでしょう。シオンとはもともとエルサレムの西にある小高い丘のことで、かつてはエブス人の要塞がありました。ソロモンがエルサレムに神殿を建てた後は、シオンは神殿やその周辺、やがてエルサレム全体を指すようになります。黙示録141節は天国の描写なので、小羊が立っているシオンの山は、天にあるシオンの山のことであり、さらに天のエルサレム、天の聖所があるところを指していることがわかります。ヨハネは、天にあるシオンの山、天にある聖所において、小羊なるキリストと十四万四千人なる残りの民を見たのです。ところで、詩編151で、 「主よ、どのような人が、あなたの幕屋に宿り、聖なる山に住むことができるのでしょうか」、詩篇24;3では、「どのような人が、主の山に上り、聖所に立つことができるのか」と問いかけています。「聖なる山」「主の山」とは、「シオンの山」と同じであり、それが「幕屋」や「聖所」と関連付けて述べられています。このことから、ヨハネが見た小羊なるキリストと十四万四千人の者たちが立っていたシオンの山とは、天の聖所があるところであると考えることができます。そして、そこに立つことのできる十四万四千人の者たちとは、詩篇15編及び24編が教えるのは、「完全な道を歩き、正しいことを行う人。心には真実の言葉があり、舌には中傷をもたない人…主の目にかなわないものは退け、主を畏れる人を尊び…とこしえに揺らぐことがない人」(詩篇1525)であり、また「潔白な手と清い心をもつ人。むなしいものに魂を奪われることなく、欺くものによって誓うことをしない人」(詩編24:4~6)ということになります。なるほど、多くの人が考えている十四万四千人に相応しい姿かもしれません。しかし、ここで見落としてはならないのは、彼らのそばに小羊なるキリストが一緒におられるということです。私たちがシオンの山に立つことができるのは、私たちの功績ではなく、すべて小羊なるキリストのおかげなのです。

【火・私たちの心の中の法則】

 

シオンに集められた残りの民の「額には小羊の名と、小羊の父の名とが記されていた」と書かれてあります。神の名が額に記されていたというのは、その人が神のものとなり、神のご品性がその人の思いや心に記され、それがその人の生活の中で反映されているということです。モーセがシナイ山で主に栄光を見せて下さいと願ったときの出来事も、この裏付けとなるかもしれません。主は雲(シェキナー)のうちにあって降り、まず主の御名を宣言されます。そして、光輝く圧倒的な栄光を見せるのではなく、モーセの前を通り過ぎる際にそっと後ろ姿だけを見せ、「主、主、憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまことに満ち、幾千代にも及ぶ慈しみを守り、罪と背きと過ちを赦す」方であること、つまり主のご品性が宣言されたのです。(出エジプト3334章)。それゆえ、額に神の名が記されている者たちは、「神の掟を守り、イエスに対する信仰を守り続ける聖なる者たち」(黙示録1412)と呼ばれているのです。エレミヤ書 3133節に、「わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」とありますが、神の民として神のご品性である愛の律法が、心に記され、それをまさに生きる人たちそれが残りの民なのです。

 

【水・詩篇5篇】

 

詩編5編は、失われた人々と贖われた人々が対比されていますが、これも黙示録を理解する上で助けとなります。まず56節で、「悪人は御もとに宿ることを許されず、誇り高い者は御目に向かって立つことができず」と記されています。神が幕屋を造られた目的は、民の間に宿られるためでした。しかし、罪人はそのままの状態では神の御許に宿ることができないので、犠牲の動物がささげられ、とりなしの業が行われたのです。これは天の幕屋においても同様です。黙示録 213に、「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる」という新天新地の預言がありますが、これが実現するためには、一人ひとりがキリストの血によって贖われていなければならないということです。また、8節では、「しかしわたしは、深い慈しみをいただいてあなたの家に入り、聖なる宮に向かってひれ伏し、あなたを畏れ敬います」と、礼拝行為について述べていますが、礼拝行為は大争闘の中心的な問題であり、三天使のメッセージは、「天と地、海と水の源を創造した方を礼拝しなさい」(黙示録147)と世界に呼びかけています。そして、ダビデは「あなたを畏れ敬います」と述べていますが、三天使の使命でも、「神を畏れ、その栄光をたたえなさい」と、同じことが述べられています。逆に、失われていく人々は「正しいことを語らず」(詩篇510)とあるのに対して、黙示録145節において、贖われた人々は、「その口には偽りがない」と対比されるように述べられています。

 

【木・背いている者にあなたの道を教えます】

詩編5115節を見ると、ダビデは自分の罪の赦しと清めを祈り求めた後、「わたしはあなたの道を教えます。あなたに背いている者に、罪人が御もとに立ち帰るように」と言いました。また、イザヤも炭火が唇に触れ、赦しと清めを得た後、「私を遣わして下さい」と主に申しでました。罪が赦され、清められるとは、救われるということです。救われた人は、その喜びを自分の中だけに抑えておくことができなくなり、まだ福音を知らない人に伝えたくなるのは自然なことです。SDA教会は、黙示録14章に出てくる3天使のメッセージを受け取り、それを延べ伝えることを使命としています。それは私たちも罪の赦しと清めを経験したからです。しかし、長い信仰生活の中で、いつしか福音を伝えることの喜びを失ってしまうことがあります。もしかしたらそれは、罪の生活に戻ってしまっているからかもしれません。罪とは神から離れること、悔い改めとは神に立ち帰ることを言います。また神に立ち帰ることをリバイバルというのです。イザヤもダビデも罪、汚れを抱えた者たちでした。しかし、それが赦されたとき、神のみ言葉を伝えるものへと変えられたのです。このような経験へと、私たちも導かれていることを覚えたいと思います。

 

 


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