| 2025年安息日学校ガイド第3期 「聖書の預言の学び方」 |
2025年3期10課「契約と設計図」
【今週のテーマ】
今週は、神とイスラエルとの契約の締結と、聖所に建設について学びます。
【日・契約の書と血】
モーセがシナイ山から下りて来て、主のすべての言葉とすべての法を民に読み聞かせました。神様から守るべき尊い聖なる教えをいただいた民は、特別な思いで受け止めたことでしょう。民は皆、声を一つにして答え、「わたしたちは、主が語られた言葉をすべて行います」と言いました。そして、命じられた通り、祭壇を築き、献げ物をささげ、その血を祭壇に振りかけたのでした(出エジ24:3~6)。犠牲の動物はキリストを表し、振りかけられた血はキリストの血を表していました。律法をすべて守りますと叫んだ民たちではありますが、自分の力で守ることはできません。それはキリストの贖い、すなわち命によってはじめて完成されるのです。人間の救いは、キリストと命の関係に築くことによってはじめて成就するものであることを、犠牲の動物の肉と血は象徴的に教えていたのです。そもそも、罪とは神から遠く離れていくことであり、それは神との関係を破壊する行為です。また、罪は、律法を犯すことによって起こります。律法は、1条から4条までが神との愛の関係を築くことを、5条から10条までは、その神の愛の中にあって、隣人との愛の関係を築くことを教えています。だから、それを破るということは、神との愛の関係を破壊することに他ならないのです。罪によって壊れた関係を修復するためには、キリストの命が必要でした。天の国に罪や汚れが一切ありません。そのような世界に私たちが救われていくためには、キリストの命によって覆われる必要があったのです。
【月・神を見る】
神様と民との契約の締結に当って、神様がモーセに、「あなたは、アロン、ナダブ、アビフ、およびイスラエルの七十人の長老と一緒に主のもとに登りなさい」(出エジ24:1)と言われました。アロン、ナダブ、アビフは、この後の28章で祭司として立てられていく人々です。その祭司たちと七十人の長老たちを、イスラエルの民の代表として、主なる神様はモーセと共に神様との契約の締結の場に招かれたのでした。彼らが一緒に登って行くと、そこに神様がおられるを見ます。「その御足の下にはサファイアの敷石のような物があり、それはまさに大空のように澄んでいた」(同10節)と記されています。不思議なのは、彼らが主なる神様を見ても、何ともなかったことです。旧約聖書において、罪人である人間は基本的に神様を直接見ることはできません。神を見た人間は滅ぼされ、死ぬしかないのです。しかしここではそういうことが起りませんでした。それは、「神はイスラエルの民の代表者たちに向かって手を伸ばされなかった」(同11節)からだと書かれています。彼らは神様を見て、そこで食べ、また飲んだと記されています。神様の前で食事を共にするということは、契約の締結の一つの要素です。主なる神様と共に食卓につき、共に食べたり飲んだりする。それによって、お互いが一体であること、深い絆で結ばれた関係がそこにあることが確認されるのです。天の御国に入るとき、そこで私たちは主と共に食事をします。そこで、永遠の命が与えられたことを改めて理解し、喜びと感動に包まれるのです。
【火・従う力】
神様はモーセを通して律法を授けられたとき、イスラエルの人々は、神の言葉に従いますと三度熱心に誓いました。それは本心からの言葉であったことでしょう。また、実際従うことができると思っていたに違いありません。神様は強制はなさいません。私たち一人ひとりの選択・決断にゆだねられます。しかし、従う決心をしたは良いけれど、それを実行する力がないことに、すぐ気づかされることになります。これは多くのクリスチャンにとっての悩みの種となっているところです。この問題を考えるにあたって、最初に覚えておかなければならないのは、日曜日のところで学んだように、律法はキリストの命をいただいて、主との関係の中で完成されていくものであるということです。キリストだけが完全であり、そのキリストの完全をいただいて初め、私たちも完全なものとなれるのです。しかし、そのうえで、神様は、私たち一人ひとりの信仰の歩みにおいて、神様は大いなる助けを与えて下さっています。
「わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える。また、わたしの霊をお前たちの中に置き、わたしの掟に従って歩ませ、わたしの裁きを守り行わせる。」エゼキエル36章26、27節
ここに主は、私たちに新しい心を与え、私たちの中に新しい霊を置くと言われました。心と訳された「レーブ」という言葉は、「知性」や「意志」の働きと強くかかわる言葉で、内なる聖霊が神の戒めに従う意志の力を与えて下さるということです。その結果、私たちはそれぞれの信仰の歩みに合わせて、神の戒めを生きる者へと成長していけるのです。
【水・ご自分の民の中に】
主はモーセに、「わたしのための聖なる所を彼らに造らせなさい。わたしは彼らの中に住むであろう」(出エジ25章8節)言われました。主は、民と共にいることを目に見える形で示そうと、聖所の建設を命じられました。地上の聖所はキリストの十字架によって役割を終えましたが、その後も、変わらずに主は私たちの中に住んでくださっています。驚くべきことに、私たち一人一人が聖所となり、私たちの内に聖霊なる神様が住んでくださるという形で継続されているのです。なお、出エジプト記25:10~27:21にかけて、幕屋とその中での奉仕の仕方、契約の箱、供えのパンの机、燭台、祭壇、垂れ幕、その色や寸法など、幕屋の建て方と祭具に関する具体的な指示が、詳細に記されています。これらは天の聖所の型であり(ヘブ8:1、2、9:11)、その実態は天にあります。
【木・神の霊に満たされて】
出エジプト記31章3節において、神様は、聖所及び祭具を造るために、工芸職人に神の霊を満たし、知恵と英知と知識をもって作業をさせらたことが記されています。一人の人を、神の霊で満たすと表現されたのは、ここが初めてです。聖なる祭具を作る働きにおいて、聖なる神の霊の助けは必須だったのです。ところで、そのような聖なる祭具について語られる文脈の中で、13節から安息日について語られていくのは興味深いところです。安息日といえば、聖書の中で最初に聖とされたものです。主は、イスラエルの民にとっても、安息日は聖なる日であると言われ、ゆえに安息日を守るように命じられました。そして、安息日を守ることによって、そのことが「永遠にわたしとイスラエルの人々との間のしるし」(同17節)となると言われました。安息日を聖とする者を、主は聖としてくださいます(同13節)。このことはエゼキエル20:12でも繰り返されており、神様との関係の中で、いかに重要なことかがわかります。
(C)2010 NAGOYA SDA CHURCH