| 2025年安息日学校ガイド第3期 「聖書の預言の学び方」 |
2025年3期11課「背教と執り成し」
【今週のテーマ】
今週は、イスラエルの民が金の子牛の偶像を造ってしまう背信と、モーセのとりなしを学びます。
【日・指導力不足】
モーセはアロン、ナダブ、アビフ、イスラエル七十人の長老たちと共に、神の御前で食事をした後、ヨシュアを連れて6回目となるシナイ山の登頂を行います。モーセは雲の中に入って四十日四十夜を断食して祈り、その後、主から十戒を書き記した二つの石の板を与えられます。(出31:18)。しかしモーセがシナイ山から下りてみると、イスラエル民は、なんと金の子牛の像を作って、それを崇めていたのでした。40日もモーセが山から戻ってこなかったために、モーセは遭難して死んでしまったと思い、不安になったのでしょうか。これまで経験してきた数々の奇跡を忘れたわけではないでしょうが、しかし、すべてはモーセを通して表されたものであり、彼ら自身の信仰とはなっていなかったのです。むしろ、自分たちが生まれ育った国の神々に近い牛の姿をした偶像のほうが、彼らにとって身近なものだったのでしょう。後を任されていたアロンでしたが、人々の要求に屈して、若い雄牛の偶像を造ってしまいます。すると人々は、驚くべきことに、「これこそあなたをエジプトの国から導き上ったあなたの神々だ」(出32:4)と言ったのでした。私たちを日々支え、導いているのは、神様でしょうか。それともこの世のものでしょうか。神様のなさることを正しく理解していないと、目に見えない神様よりも、目に見えるこの世のものを優先して考えてしまう危険があるのです。
【月・偶像礼拝と悪】
「彼らは次の朝早く起き、焼き尽くす献げ物をささげ、和解の献げ物を供えた。民は座って飲み食いし、立っては戯れた」出エジプト記32章6節
民たちは金の子牛の像を造り、その前で犠牲の動物をささげたあと、飲み食いし、戯れたとあります。動物の上に立つべき存在として神様から創造された人間が、逆に動物を神とすることで、動物の下になりさがる姿は滑稽なことです。これは今日の人々も同じで、アニミズム信仰は世界中に存在しています。また、偶像を拝むことによって道徳的に廃退してしまうことがわかります。ローマ1章23、24節に、「滅びることのない神の栄光を、滅び去る人間や鳥や獣や這うものなどに似せた像と取り替えたので、神は、彼らが心の欲望によって不潔なことをするにまかせられ、そのため、彼らは互いにその体を辱めました」とある通りです。また、詩編115編8節を見ると、「偶像を造り、それに依り頼む者は皆、偶像と同じようになる」とも記されています。偶像には命がありません。目があっても見えず、耳があっても聞こえず、口があっても話すことができない。それが偶像です。これと同様に、偶像を拝み続けるなら、その人自身の霊的状態も、正しいことが見えなくなり、聞こえなくなり、語ることもできなくなってしまうのです。
【火・自らを堕落させる】
山の下で、民たちが偶像を造って拝んでいることを知った神様は、モーセにすぐに下山するように言われます。その際に言われた言葉は、「あなたがエジプトの国から導き上った民は堕落し、早くもわたしが命じた道からそれ」(出32:6,7)てしまったということでした。神様から離れたことを、主は、「堕落」したと言われわけです。私たちは金の子牛を拝むことはしないでしょうが、神様以上に心惹かれるものは、すべて偶像となりえます。私たちの心はそれに支配されるようになり、思考も感情もゆがめられ、やがて堕落していきます。私たちの心の王座には、常に主なる神様がおられなければならないのです。そうでなければ、堕落してしまうことを理解しなければなりません。ところで、イスラエルの民がこうも簡単に堕落してしまったのはなぜなのでしょうか。単にモーセがなかなか山から戻ってこなかっただけでは説明がつきません。実は、モーセが長く不在となったのは、民たちが、与えられた律法の教えを瞑想し、さらにこれから与えられようとしている神の啓示を受けるための心の準備をするためでした。彼らが、神の要求をさらに理解しようとつとめ、神の前にへりくだっていたならば、試練に会わないように守護されたのです。しかし、彼らは、そうしませんでした。その結果、律法に対して注意を払わなくなり、無頓着となり、律法の教えとは正反対の行為に至ったのでした。私たちも同様に、み言葉を瞑想し、理解を深め、み言葉に生きなければ、すぐに堕落してしまうことでしょう。
【水・神の義憤】
主はモーセに、かたくなな民に対して怒りが燃え上がっている。ゆえに、彼らを滅ぼし、モーセの子孫を大いなる民とすると言われました(出32:9,10)。神様は私たちの罪に対して寛容であられるように錯覚することがないでしょうか。しかし、それは間違いです。私たちの罪のために御子が死なれたことを思えば、罪を軽く考えることなどできないはずです。しかし、モーセは主をなだめるように、「主よ、どうして御自分の民に向かって怒りを燃やされるのですか・・・どうか、燃える怒りをやめ、御自分の民にくだす災いを思い直してください」(同32:11)と訴えます。この言葉が功を奏し、主は民に下そうとされた災いを思いとどめられるのですが、モーセが下山して、民たちの堕落した光景を目の当たりにしたとき、神様がなぜお怒りになったのかがわかったのでした。モーセ自身も激しい義憤にかられ、手に持っていた十戒の板を投げつけ砕いてしまったのでした。アロンは無理やり強いられて金の子牛を造ったとか、不思議な奇跡もおきたのだなどと無意味な言い訳をしますが、全くそれは受け入れられませんでした。また、神様は民の反逆と背信を途中で止めることもおできになりましたが、すべてのものの教訓とするために、民の反逆と背信が頂点に達するのをお許しになったのでした。モーセは、偶像礼拝に加わらなかった者たちに、反逆をやめない者をすべて殺すよう命じます。「その日、民のうち、おおよそ三千人が倒れた」(同32:28)と記されています。しかし、悔い改めて身を低くしたものは救われました。モーセのとりなしによって全イスラエルを滅ぼすことはなさいませんでしたが、反逆と背信を悔い改めない者たちは厳罰に処せられました。終末時代に生きる私たちにとって、この出来事は、やがて来る神の裁きの日に、目を向けさせます。
【木・執り成し】
翌日モーセは民の犯した罪を贖うことができればと、再び主のもとに上ります。モーセは主に民の赦しを乞いつつ、「もし、それがかなわなければ、どうかこのわたしをあなたが書き記された書の中から消し去ってください」(出32:31)と祈ります。このような祈りは、まさにキリストの祈りそのものであります。モーセがキリストの予型であると考えられるのも、不思議ではありません。興味深いのは、32章32節で、「赦す」と訳されている言葉には、「担う(負う)」という意味があるということです。イザヤ53:4で、「彼(イエス)が担ったのはわたしたちの病」と訳されている言葉が、同じ言葉ですが、キリストが私たちの罪を赦されるというのは、キリストご自身が、私たち一人ひとりの罪の責任を担われる(負われる)ということなのです。
(C)2010 NAGOYA SDA CHURCH