2025年安息日学校ガイド第3期
 「聖書の預言の学び方」

2025年3期12課「「あなたの栄光を」

【今週のテーマ】

 

今週は、神の栄光を求めたモーセについて学びます。神の栄光とは何か。なぜ、求めたのか。その結果どうなったのか学んでいきましょう。

 

【日・臨在(会見)の幕屋】

 

出エジプト記337

「モーセは一つの天幕を取って、宿営の外の、宿営から遠く離れた所に張り、それを臨在の幕屋と名付けた。主に伺いを立てる者はだれでも、宿営の外にある臨在の幕屋に行くのであった。」

 

宿営の中心に置かれた幕屋(聖所)とは別に、宿営の外に「臨在の幕屋」を建て、そこでモーセは主と会いました。11節では、「主は人がその友と語るように、顔と顔を合わせてモーセに語られた」とあり、モーセが主と、どれほど親密な交わりの時をもっていたかがわかります。同様に私たちも、祈りの部屋を持ち、そこで主と特別に交わる経験を持つことは、大きな力となることでしょう。ところで、ヘブライ語では、「幕屋(ミシュカーン)」と「天幕(オーヘル)」と使い分けています。「天幕」とは移動式の住まいを意味し、神の住まいとしての天幕が「幕屋」となります。この33章7節に出てくる「臨在の幕屋」(新共同訳)は、「幕屋(ミシュカーン)」ではなく、「天幕(オーヘル)」と書かれてあり、また、「臨在」と訳された言葉、「モーエード」は、指定された定まった場所で会うという意味の動詞からきた言葉です。したがって、「臨在の幕屋」よりも、「会見の天幕」と訳すほうが、他の聖書箇所との整合性があいます。モーセがこの会見の天幕に入るとき、民はみな立ち上がって見送りました。そして、モーセが天幕の中に入ると、雲(シェキナー)の柱が入り口の前に覆ったのでした。

 

【月・あなたを知ることができるように】

 

出エジプト記3312節から、モーセはこの「会見の天幕」の中で、主にある願いを述べます。それは、「どうか今、あなたを知ることができるように」(3313)というものでした。かつて、モーセは主に対して、お名前を教えてくださいと願ったことがありましたが、ここではさらに深く、主を知りたいと願ったのです。これはモーセだけでなく、神を信じるすべての者の願いではないでしょうか。主を知れば知るほど、もっと知りたいと思うようになるものだし、逆に言えば、まだ、まだ自分は主を知らないのだとモーセは感じたのでしょう。モーセの信仰は、主を知ることによって始まり、主を知ることで深まり、主と共に歩むことで成長していったのです。キリストは、「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」(ヨハ17:3)。と言われましたが、モーセはまさにこの経験へと導かれていったのでした。

 

【火・「あなたの栄光をお示しください」】

 

モーセはさらに主に、「どうかあなたの栄光を私にお示しください」(3318)と願います。神の栄光とは何でしょうか。それは神のあらゆる素晴らしさを言います。その愛のご品性も、完全なる調和も、美しさや永遠性も、あるいは近寄りがたいほどの神聖さも、すべての人間を超えた神に属する特性をさしています。モーセは、そのような神の圧倒的な素晴らしさを、体中で体感したかったのでしょう。それがこれから民を導くための原動力となると考えたのかもしれません。ところで、神の栄光とは、必ずしも目に見えるものではありません。霊的に感受することのできるものでもあります。会見の天幕において、「主は、人がその友と語るように、顔と顔を合わせてモーセに語られた」(3311)とあるので、それとはまた別の形で、神のすばらしさを示してほしかったのです。それに対して主は、「私は良いものすべてをあなたの前に通らせ、あなたの前で主の名によって宣言する。私は恵もうとする者を恵み、憐れもうとする者を憐れむ」(3319)と答えてくださいました。どのような形かはわかりませんが、主は、ご自分の良いものを、一部ではなくすべて、モーセの前に通らせると言われ、それいよりご自分の栄光を表すと言われたわけです。いったいモーセは何を見、何を聞き、何を体感したのでしょう。神を見てなお生きていられる人はいないことから、モーセは、主の後ろだけを見せられたのですが、後ろだけであったとしても、モーセは十分に神の栄光を感受したことでしょう。

 

【水・神の自己啓示】

 

34章に入ると、モーセは十戒の板を割ってしまったので、新しい石の板を二枚を持って、8回目のシナイ山登頂に向かいます。ガイドでは7回目となっていますが、5回目の部族の代表73人と主の前で食事をした場面と、その後、さらにヨシュアと二人で主に会うために登頂を続けた場面を1回とカウントしているようです。モーセはそこで、自分が願った通り、主の栄光を垣間見ることになります。出エジプト3458にかけて、主は雲のうちにあって降り、モーセと共にそこに立ち、主の御名を宣言されたあと、モーセの前を通り過ぎていく光景が描かれています。そして、ご自分について、「憐み深く、恵に富み、忍耐強く、慈しみとまことに満ち、慈しみ深く、罪と背きと過ちを赦す者」であることと、「悔い改めない者を罰せられる方である」と、自己啓示されます。それと共に、民のために驚くべき業を行い、彼らを約束の地まで導くと保証される一方、民が簡単に背いてしまった律法を再確認させ、最後に、モーセに十戒の言葉を持ってきた石の板に書かせたのでありました。

 

【木・光を放つモーセの顔】

 

この一連の出来事の後、モーセの身に不思議なことが起こりました。それは本人もはじめ気づいていなかったようですが、なんとモーセの顔が光を放っていたのです。なぜ、モーセの顔が光を放つようになったのでしょうか。その理由は、単に彼が神の御前にいたからではありません。なぜなら、モーセはこれまでにも何度も主と語り合っていたのに、そのあとに彼の顔が光を放つことはなかったからです。とはいえ、もし彼がシナイ山頂で、主の栄光に触れなければ、顔が輝いたりもしなかったでしょう。おそらく、そのとき、何かがモーセの中で変わったのです。これまでは不安があって、「栄光を見せて下さい」と主にお願いするような状態でした。しかし、このとき、おそらく不安はもう消え、いつも主が共にいて下さることへの絶対的確信が与えられるような、霊的な変化が内側で起こったのです。コリント二318節に、「わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです」とありますが、まさに、モーセはこの経験をしたのかもしれません。イエス・キリストご自身も、変貌の山で光輝くということがありましたが、そのようなキリストと同じ姿に変えられるのだとすれば、モーセのように光輝くことがあっても、不思議ではありません。そして、このような変化は、モーセだけのものではなく、すべて主を信じる者たちが経験してもおかしくはないことだとも言えます。ただ、本人は気が付きませんが・・・

 


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