2025年安息日学校ガイド第2期 「聖書の預言の学び方」 |
2025年3期2課「燃える柴」
【今週のテーマ】
今週は、モーセの召命の場面から学びます。
【日・燃える柴】
モーセは、エジプトを追われ、ミディアンの地に逃れたあと、平穏な生活を送ることができました。モーセはそこで結婚し、2人の息子をもうけ、ミディアンの祭司である義父エトロの家族の一員になったのでした。モーセはダビデのように羊飼いとして40年間をのんびりと過ごし、特に自然の中にあらわれている神の臨在を味わいました。このような神の臨在の中で、指導者としての役割を果たすための準備と、聖書の最も古い二つの書、ヨブ記と創世記を執筆していったと言われています。主はモーセを、きらびやかな世俗の生活では決して味わい知ることのできない経験へと導かれていったのでした。そして、このような状況の中で、モーセは神からの召命を受けるのです。ある日のこと、羊の群れをホレブの山まで連れてきたとき、柴が燃えているのに気が付きます。ところが、不思議なことにその柴はいつまでも燃え尽きないで、燃え続けているのです。そして、その燃える炎の中に、イエス・キリストが現れたのです。主は、モーセに靴を脱ぐように言われます。主がおられるならそこは聖なる所です。聖所に入るときは靴を脱ぐのは、汚れたものを持ち込んではならないことを表しています。すると、主はご自分を、「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」(出3:6)と言いました。なぜこのように言われたのでしょうか。主は、これらの族長たちに、彼らの子孫はカナンの地を受け継ぐと約束しておられました。その約束を成就させるときがついに来た。そして、それを果たすために、モーセを遣わすことを示そうとされたのでしょう。
【月・主の御使い】
「そのとき、柴の間に燃え上がっている炎の中に主の御使いが現れた。彼が見ると、見よ、柴は火に燃えているのに、柴は燃え尽きない」(出エジプト3章2節)
燃え尽きない柴の中に主が現れたとき、主なるキリストを、「主のみ使い」と表現しています。「御使い」と訳されたヘブライ語の「マラーク」は、単純に「使者」という意味の言葉で、この場合、キリストは、父なる神の言葉を伝える使者として来られたので、このように表現されているのでしょう。決して、キリストを「天使」と言っているわけではありません。主はモーセに、「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った」(同7節)と言われました。苦しみにあうとき、まるで神様から見放されてしまったかのように感じることがあるかもしれません。しかし、神は民の苦しみをつぶさに見、彼らの叫び声を聞いておられるのです。そして、神はその痛みを知ったと言われるのです。また、「見よ、イスラエルの人々の叫び声が、今、わたしのもとに届いた」(同9節)とも言われました。私達の叫びは、必ず主のもとに届きます。その結果、どうなったのでしょうか。主は、「それゆえ、わたしは降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出し、この国から、広々としたすばらしい土地、乳と蜜の流れる土地、カナン人、ヘト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の住む所へ彼らを導き上る」(同8節)と言われたのでした。出エジプトに際してモーセが遣わされるのですが、しかし、実際に救い出して下さるのは主ご自身なのです。主も、民のもとへと一緒に下っていかれるのです。
【火・主の御名】
モーセは神に、あなたの名は何ですかと問いかけます。それはモーセがイスラエルの民に、自分が先祖の神から遣わされた者だと言ったとき、『その神の名は何か』と問われると思ったからです。イスラエルの民は多神教のエジプトで長く暮らしていたため、「どの神があなたを遣わしたのか?」と問うことはありえることでした。それと共に、モーセ自身も神の名を知りたいと思っていたのかもしれません。というのも、ヤハウェという名は知っていても意味がわかりませんでした。神の名とは、単なるラベルではなく、その存在の本質や力を示すものでした。モーセは神の名を示すことで、自分の使命に対する民の信頼を得ると共に、モーセ自身も確信を持ちたいと思ったのです。すると、神はこのモーセの願いにすぐに答えられます。主は「私はある。私はあるという者だ」と言います。この不思議な名前が意味しているのは、いつでも、どこでも、常に神はそばにいてくださる方であることです。どれほど大きな試練の中にあっても、神はいつも共にいて下さる。これ以上大きな慰めはありません。
【水・四つの言い訳】
モーセは自分がイスラエルの民から受け入れられるだろうかと不安でした。それで4つの言い訳をします。(1)私は何者ですか。(2)あなたは何者ですか。(3)彼らが私を信じなかったらどうするのですか。(4)私は雄弁ではありません。これに対して神は、「わたしは必ずあなたと共にいる」と語り、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と教え、さらに三つのしるしを与えられます。一つ目は杖のしるしでした。モーセが杖を投げると、杖は蛇に変わり、蛇をつかむと再び杖に戻りました。蛇はサタンの象徴であり、エジプトを支配している悪を代表するものでした。それを自由に支配できることが示されました(出エジプト記4:3~5)。二つ目はライ病の癒し。モーセが懐に手を入れると、その手はライ病に感染しており、再び懐に戻すと元に戻っていました。ライ病は不治の病であり、神はモーセを通し民を癒す力があるということを示されました。これは神がもう一度、イスラエルを健全な状態に戻すことを意味していたのです(同6,7節)。三つ目のしるしはナイル川の水を血に変えるというものでした。ナイル川の水を地面にまくと血に変わりました。ナイル川はエジプトにとってあらゆる良いものと繁栄の根源でした。それが血に変わるとは、神には、パロとエジプトを打ち滅ぼす力があることを意味していました。このような驚くべきしるしを見てもなお、自分は雄弁に語ることができないというモーセに、雄弁に語ることができる者を与えます。それは実の兄アロンでした。こうして、すべてが整えられていったのでした。
【木・割礼】
モーセが主に言われた通り、エジプトに行く「途中、ある所に泊まったとき、主はモーセと出会い、彼を殺そうとされ」(出エジ4:24)ます。一体何が起きたのでしょうか。そのとき妻のツィポラが機転を利かして、とっさに石刀を手にして息子の包皮を切り取り、それをモーセの両足に付けます。実は、モーセは末の子に割礼の儀式を行うことをなおざりにしていたのです。モーセは、神の民の指導者として、神に対して完全な服従と従順を示す必要がありました。ほかの人々が従順であるように指導する資格を得るためです。もし、選ばれた指導者が、このようなことを怠るならば、人々の間で神の戒めの力を弱めることになったことでしょう。「モーセは、パロに対する任務を帯びて、非常に危険な立場に置かれることになった。彼の生命は、聖なる天使たちに守護されていたからこそ安全であった。しかし、当然果たすべき義務を怠っていては安全ではなかった。なぜなら、彼は、神の天使たちに保護されることができないからであった」(『希望への光』129ページ、『人類のあけぼの』第22章)。この出来事は、たとえ指導者にならなくとも、神の教えに忠実であることがいかに重要なことなのかを教えています。
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