2025年安息日学校ガイド第2期
 「聖書の預言の学び方」

2025年3期3課「波乱の幕開け」

【今週のテーマ】

今週は、モーセがファラオのもとに出向き、イスラエルを解放するように申し出る最初の場面から学びます。ファラオは許可するはずもなく、かえって重労働が課せられ、民もモーセも苦しむことになります。

 

【日・主とは一体何者なのか】

 

モーセとアロンはファラオのもとに出かけて行き、「イスラエルの神、主がこう言われました。『わたしの民を去らせて、荒れ野でわたしのために祭りを行わせなさい』(出エジ5:1)と申し出たとき、王ファラオの答えは、「主とは一体何者なのか。どうして、その言うことをわたしが聞いて、イスラエルを去らせねばならないのか。わたしは主など知らないし、イスラエルを去らせはしない」(同2節)というものでした。「主とは一体何者か」とは、決して主を知りたいと思っての言葉ではありません。それはイスラエルの神を見下した言葉です。それゆえ、なぜ私が言うことを聞いて、イスラエルを去らせなければならないのかと続きます。そして、ファラオは「わたしは主など知らない」と言うのです。これはその通りです。ファラオは全く神を知らない者でした。主なる神を知っており、また主なる神から知られている。そのような関係の中に生きている者こそが、救いを得るのです。「主など知らない」と言って生きている人に対しては、主ご自身も、「私はあなたを知らない」と言われることでしょう。

 

【月・波乱の幕開け】

 

モーセが民を去らせるように要求すると、ファラオはその要求をはねのけ、レンガ造りに必要なわらの支給をストップさせました。そのため民たちは自分たちでわらを探さなければならず、労働が前よりも大変になりました。神に従って歩むとき、今までなかった試練が来ることがあります。神は信仰を試されるのです。神から長く離れていたイスラエルの民たちは、救われる準備ができていませんでした。彼らは真の信仰を取り戻さなければならなかったのです。しかし、そのことがわからない民たちは、「どうか、主があなたたちに現れてお裁きになるように。あなたたちのお陰で、我々はファラオとその家来たちに嫌われてしまった。我々を殺す剣を彼らの手に渡したのと同じです」(出エジプト521)と言ってモーセに抗議したのでした。このようなモーセに対する不満は、この先何年にもわたって抱えることになる民との対立の前兆でした。しかし、主のために、主に言われるままにしたことによって、状況がさらに悪化するとすれば、理解に苦しむし、心が折れそうにもなるかもしれません。信仰の闘いには必ず試練が伴います。しかし、そのことによって、信仰の階段を上っていくことができるのです。私たちは神のなさることに対して不満を口から出すことのないように注意しなければなりません。

 

【火・「わたし()」】

 

モーセは主のもとに帰って、「わが主よ。あなたはなぜ、この民に災いをくだされるのですか。わたしを遣わされたのは、一体なぜですか」(出エジプト5:22)と訴えます。モーセが主に、「なぜ」ですかと問いたくなるのも当然です。神の指示に従って行動しているだけなのに、神は民を救い出そうとしないばかりか、かえって苦しめているように思えたからです。理由があるのなら、それを言ってくだされば良いものをとも思いますが、どのような状況であろうとも神を信じていく信仰が、結果を急ぎがちだったモーセ自身にも必要だったのかもしれません。しかし、このモーセの問いかけに対して、主はすぐに、「今や、あなたは、わたしがファラオにすることを見るであろう。わたしの強い手によって、ファラオはついに彼らを去らせる…」(出エジプト61)と答えられます。勝利が確定しているのが信仰の闘いです。これを信じるかと問われているのです。また、神はモーセに、6章2節~8節にかけて、いくつかの重要な事実を思い出させます。(1)わたしは主である。(2)わたしは族長たちの前にあらわれた。(3)わたしは彼らと契約を立てた。(4)わたしは彼らに、カナンの地を与えると約束した。(5)わたしはイスラエルの子らのうめき声を聞いた。(6)わたしはあなたたちに約束の地を与えるという契約を思い起こした。このように、「わたし()」という言葉が繰り返えされています。あなたたちの神、主なる「わたし」は、いままで、これこれのことを行ってきたのだから、これから「わたし」が行うと約束したことも、信じることができるはずだというわけです。それは、(1)「わたしはエジプトの重労働の下からあなたたちを導き出し」、(2)「奴隷の身分から救い出す」。(3)「腕を伸ばし、大いなる審判によってあなたたちを贖う」。(4)「そして、わたしはあなたたちをわたしの民とし、わたしはあなたたちの神となる」(6:67)という約束です。これら四つの神の行動は、神の民との関係を確かなものとし、再構築するものとなっていくのです。

 

【水・割礼のない唇】

 

イスラエルの民は、長い間、解放される日を待ち望んできましたが、その望みはかなわないできました。しかし、モーセが現れたとき、おそらく生涯で初めて解放の希望を抱いたに違いありません。ところが、一層過酷な重労働を課せられて希望は打ち砕かれました。民たちはすっかり意気消沈し、気力を失ってしまい、モーセの言葉に耳を傾けようとはしなくなってしまいました。このような辛く、苦しい状況にある人に希望を持つようにと励まし、説得することは簡単ではありません。苦しみの中にあるヨブを、友達たちは慰めることができなかったように。モーセは、主に「御覧のとおり、イスラエルの人々でさえわたしに聞こうとしないのに、どうしてファラオが唇に割礼のないわたしの言うことを聞くでしょうか」(出エジプト6:12)と訴えます。「唇に割礼のない」とは、口下手であるということです。モーセは、もし自分の弁が立ち、もっとうまく語れたなら、ファラオや民を説得できたのかもしれないと言いたげです。同じく、私たちも、もう少し自分に能力、学歴、聖書知識、社会的地位があるならば、福音をうまく語れるのにと考えがちです。しかし、それは、将棋の駒が、「もっと材質がりっぱで見栄えが良く、駒作りの名人に作ってもらうならば勝つことができるのに」と言うのと似ています。将棋の駒に優劣はなく、重要なことはだれの手に握られているかです。モーセを手に握るお方は神御自身なのです。これは私たちも同様です。

 

【木・ファラオに対しては神のように】

 

不信仰を表すモーセに対して、主は、712節において、「見よ、わたしは、あなたをファラオに対しては神の代わりとし、あなたの兄アロンはあなたの預言者となる。わたしが命じるすべてのことをあなたが語れば、あなたの兄アロンが、イスラエルの人々を国から去らせるよう、ファラオに語るであろう」と言われました。神はここで、ファラオの前ではモーセが神の代わりとなり、アロンがモーセの預言者となると言われました。恐れ多い表現ですが、事実、クリスチャンは神の代理なのです。代理人にとって大事なことは、自分を表すのではなく、その任務を委ねたお方の思いを主張し、それをなし遂げることです。神は、弱く不完全な人々でも、御自分の御名によって用い、栄光を現わされます。また、神の働きは一人で行うものではありません。主はモーセに、兄アロンを与えられ、モーセが苦手な部分をアロンが補うのでした。そして、神の災いが伴い、最終的にエジプト人は、主がどなたであるかを知るようになる。これが神のご計画でした。

 


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