2025年安息日学校ガイド第2期
 「聖書の預言の学び方」

2025年3期4課「災 い」

【今週のテーマ】

今週は、エジプトに臨んだ9つの災いについて学びます。それらは偶像の神々に対するものであり、唯一真の神はどなたなのかが示されていきます。

 

【日・「神」対「神々」】

 

主は、「エジプトのすべての神々に裁きを行う。わたしは主である」(12:12)と言われました。この言葉からも分かる通り、モーセの闘いはファラオやエジプトとの闘いではなく、エジプトで神と信じられた偽りの神々との闘いでした。蛇やナイル川、蛙など、エジプトで神のごとく崇められていたものであり、それに対して神は、それらは神ではないということを、そして天地万物を創造された主こそ、唯一真の神であることを示されたのでした。たとえば、杖を蛇に変えたり、杖に戻したりして、神として祭られていた蛇を手の中で完全にコントロールしてみせたり、10の災いも、命の源としてあがめられていたナイル川の水を血に変えて飲めなくさせたり、多産の神であった蛙の被害に合わせたりして、それらのものを神とすることがいかに愚かなことなのかを示されたのでした。そして何よりも自分自身を神としていたファラオが真の神の前には無力であることを示されたのでした。

 

【月・誰がファラオの心をかたくなにしたのか】

 

出エジプト7 34節に、「しかし、わたしはファラオの心をかたくなにするので、わたしがエジプトの国でしるしや奇跡を繰り返したとしても、ファラオはあなたたちの言うことを聞かない」とあります。この言葉通り、ファラオの心はかたくなで、災いが臨んでも、そう簡単にイスラエルを去らせようとはしませんでした。しかし、気になるのは主がファラオの心をかたくなにされたと書かれてあることです。これはなぜなのでしょうか。そのようなことをしなければ、もっと早くイスラエルはエジプトを出ることができたことでしょう。これは、同5節に、「わたしがエジプトに対して手を伸ばし、イスラエルの人々をその中から導き出すとき、エジプト人は、わたしが主であることを知るようになる」とあるように、主こそ神であることを、ファラオもエジプト人も知るに至るまで、災いを続ける必要があったからです。災いが続けば続くほど、エジプト人が信じてきた神々は神ではなく、イスラエルが信じる神こそが唯一真の神であることを認めざるを得なくなっていったのです。また、エジプト人だけでなく、イスラエルの民も主こそ神であることを知る必要がありました。400年にもわたる奴隷生活の中で、神との関係はすっかり弱まり、信仰から離れてしまった者たちもいたに違いありません。しかし、次々にエジプトに災いを及ぼす神に接し、しかも、エジプトに災いが臨んでも、イスラエルの中だけは守られていく中で、先祖代々信じられてきた神こそが、真の神なのだと知ることになるのです。

 

【火・最初の三つの災い】

 

かたくななファラオに対して、まず主は、①ナイル川の水を血に変える、②ナイル川から大量の蛙が出てくる、③大地から大量のぶよ(シラミ)が発生するという、三つの災いを立て続けに来たらせます。古代ギリシアの歴史家ヘロドトスは、「エジプトはナイルの賜物」と言い、ナイル川が毎年繰り返す氾濫によって、肥料いらずで年に2,3度の収穫をもたらしました。ナイル川はエジプトのまさに「いのち」の源であり、命の源である女神ハピの象徴でした。その川の水が血に変わるとは、その命の源であった女神がモーセの神に裁かれて死ぬことを表しました。ナイル川の水が血に変わると、大量の蛙が陸に這い上がり、エジプト人の家の中まで侵入してきました。エジプト人にとって蛙は生殖の神(ヘケト)であり、安易に殺せず、その神としてまつられていたものによって、エジプト人たちは悩まされることになるのでした。さらに神の災いは、川から大地へと移っていきます。大地から、ぶよ、あるいはシラミが大量に発生します。エジプト人にとって大地も神(ゲブ)としてあがめられていましたが、皮肉なことに、その小さな虫の前に大地は全く歯が立たず、エジプト人は悩まされたのでした。しかし、創造主は、その大地の土の塵から、そのような小さな虫を創造されたのでした。

 

【水・あぶ、家畜、はれ物】

 

4番目の災いは、「あぶ」の発生でした。災いの種類は、「ぶよ」の発生と似ていますが、ここから、ファラオに対して、どのような災いが次に来るかを、あらかじめ預言的に語られます。モーセはファラオに、「主はこう言われる。私の民を去らせ、私に仕えさせなさい。もしあなたが私の民を去らせないなら、あなたとあなたの家臣、あなたの民とあなたの家にあぶを送る。エジプトの家々も、彼らのいる土地もあぶの群れで満ちる」(出エジプト8;16,17)と告げました。このように前もって告げられたのは、「それが偶然に起こったと言われることのないように、それがいつ起こるかという予告がなされた」のでした(人類のあけぼの上P304)。あぶも、エジプトでは神ウアチトとしてあがめられ、沼地や湿地の主でした。しかし、そのあぶによって大きな被害を大きな受けることになったのでした。また、818節に、「しかし、私はその日、私の民の住むゴシェンの地を区別し、そこにはあぶの群れが入らないようにする。主である私がこの地のただ中にいることをあなたが知るためである」とあり、イスラエルの民はあぶの被害を受けませんでした。それは主の守りを通して、彼らが、主が共にいることを知るためでした。この災い以降、5番目の災いの家畜の病気も、6番目の人間の疫病も、エジプト人にのみ起き、イスラエルの民には起きませんでした。ちなみに、家畜に関しては、女神ハトホルは、牝牛の頭を持つ姿で描かれており、お牛の神アピスも古代エジプトでは非常に人気があり、とても尊敬されていました。また、医術、魔術、知恵の女神イシスや戦争と疫病の女神セクメト、医術といやしの神イムホテプのような神々も信じられていましたが、これらの偶像の神々は、自分たちの礼拝者を守ることができませんでした。

 

【木・雹、いなご、そして暗闇】

 

9章14~16にかけて、主は災いの二つの目的について語られます。一つは、主の他神はないことを分からせるため。もう一つは、主の名を全地に告げ知らせるためでした。そのために、疫病で地上から絶やすこともできたのですが、しなかったのだと主は言われました。しかし、それでもイスラエルの民に対して高ぶり、彼らを去らせようとしないので、エジプト始まって以来、今までなかったほどの激しい雹を主は降らせます。雹は神の裁きを表していました。しかし、神は雹からのがれるために、「避難させるが良い」とも言われました。エジプト人であっても、主の言葉を信じた者たちには、救いの道を備えておられたことがわかります。実際、「ファラオの家臣のうち、主の言葉を畏れた者は、自分の僕と家畜を家に避難させたが、主の言葉を心に留めなかった者は、僕と家畜を野に残しておいた。」(92021節)とあり、主の言葉を信じる者と信じない者とに分かれたのでした。すでに6つの災いを目にしていながら、それでも信じない者たちは多数いたのです。また、このときも、「イスラエルの人々の住むゴシェンの地域には雹は降らなかった」(9 26節)とあります。ファラオはモーセに、「今度ばかりはわたしが間違っていた」(9 27節)と言いますが、まだ心から主なる神を畏れるに至っていませんでした。それで、8番目の災いが臨みます。それはいなごの大量発生によって、雹の害を免れた残り農作物が全滅するというものでした。災いは段階をおって大きく、また激しくなっていきました。雹のときには被害を免れていた主食となる小麦も、今度のいなごの襲来によって失いました。神の警告に悔い改めない心は、神の恵みによって残されたものを完全に奪い取っていきます。霊的には、小麦は命のパンであるみ言葉を表し、いなごに象徴されるサタンが、み言葉を食い尽し、奪い取っていくことを表しています。み言葉の光が奪われた後、待っているのは闇です。9番目の災い、闇でした。

出エジプト1022節、23節「モーセが手を天に向かって差し伸べると、三日間エジプト全土に暗闇が臨んだ。人々は、三日間、互いに見ることも、自分のいる場所から立ち上がることもできなかったが、イスラエルの人々が住んでいる所にはどこでも光があった。」

闇は三日間に及び、互いに見ることも、立ち上がることもできないほどでした。しかし、イスラエルの人々が住んでいる所にはどこでも光がありました。まるで、エジプト人とイスラエル人を闇と光とに分けたかのようです。4番目のあぶの災い以降、もはやイスラエル人には災いは全く及んでいません。世の終わりの裁きのときも同様でしょう。10の災いのうちこれまでその多くが、偽りの神々に対する裁きという側面があったわけですが、太陽はエジプト人が最も崇拝するアモン・レーと呼ばれる神です。どんなときも、休むことなく、光を注いでくれるとたたえられていました。しかし、その神だと信じていた太陽神が、光を放つのを止めたのです。これはエジプト人にとって計り知れないショックだったに違いありません。この出来事は、キリストの十字架の場面を思い出します。キリストが亡くなる前の3時間、全地は闇に覆われたのでした。この闇の後、長子が死ぬという最も恐ろしい災いに続いていきますが、これはキリストの十字架の死を象徴するものでした。その死を通して、神の民はエジプトから脱出し、カナンに向かうことになるのでした。

 


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