2025年安息日学校ガイド第2期
 「聖書の預言の学び方」

2025年3期6課「葦の海を通って」

【今週のテーマ】

 

今週は、イスラエルの民が葦の海を渡る場面から、黙して神の救いを見ることの大切さを学びます。

 

【日・「行って、主に仕えるがよい」】

 

恐るべき10番目の災いが終わった後、「ファラオは、モーセとアロンを夜のうちに呼び出して、「さあ、わたしの民の中から出て行くがよい」と言います。興味深いのは、その後、「わたしをも祝福してもらいたい」(出エジプト1232節)と願ったことです。これは、彼が悔い改めたということではなく、これ以上災いが下るのを止めてほしかったのでしょう。エジプトの民衆も、一刻も早く、イスラエル人たちにエジプトから出て行ってもらいたく、イスラエル人たちをせきたてます。「そうしないと自分たちは皆、死んでしまうと思った」(同33節)からです。彼らは、創造主なる神の前に自分たちが、そして自分たちが信じる神々が無力であることを知ったのです。また、イスラエルが「エジプト人から金銀の装飾品や衣類を求め」ると、エジプト人たちはその要求に答えます。主がそのようにされたと書かれてありますが(同3436節)、これらの金銀は、後に幕屋建設に用いられるものでした。それと共に、エジプトでの苦しい経験を、金銀のような宝として持って出よということだったのかもしれません。

 

【月・初子の奉献】

 

主はモーセに、「すべての初子を聖別してわたしにささげよ」と言われました。そして、「エジプトから出たこの日を記念しなさい」と言われました(出エジプト131~3節)。これは主の力強い御手によって、エジプトから脱出できたことを忘れないためです。詩編1032節に、「わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。」(新改訳)とあります。私たちが主から離れないために、主の良くして下さったことを忘れてはならないのです。過越しの祭りなども、同じ目的で行うよう命じられたわけですが、やがて、その祭りも形骸化していきます。そして、「イスラエルの人々は、周囲のあらゆる敵の手から救い出してくださった彼らの神、主を心に留めなくなっ」ていくのです(士師記834節)。

 

【火・葦の海を渡る】

 

イスラエルの人々は、エジプトを無事に脱出すると、無秩序で、好き勝手に行動したのではなく、軍隊のように、秩序正しく部族ごとに分かれて行動しましまた。また、「モーセはヨセフの骨を携えて」(13:19)いました。ヨセフは、約束の地を決して見失うことはありませんでした。彼は自分の骨をカナンの地に持って行くように求めたのです(50:2425)。イスラエルがカナンに到着すると、ヨセフの骨は、「シケムの野の一画に埋葬され」(ヨシュ 24:32)ました。さて、エジプトを出てしばらくすると、主はモーセに、「イスラエルの人々に、引き返してミグドルと海との間のピ・ハヒロトの手前…海辺に宿営するのだ」(出エジプト1412)と命じます。今まで歩いてきた道を引き返すというは、あまり良い気持ちはしなかったことでしょう。しかも、エジプトから少しでも離れたいと思っているのに、逆にエジプトの方に戻れと言われたのです。神様が導かれる道は、私たちが望んでいる方向とは逆であることがしばしばあります。そのようなときでも、主を疑わず、主の御声に聞き従えるかどうか、信仰が求められるのです。ところで、主は、「わたしはファラオの心をかたくなにし、彼らの後を追わせる。しかし、わたしはファラオとその全軍を破って栄光を現すので、エジプト人は、わたしが主であることを知るようになる」(1434節)と言われました。イスラエルは海とエジプト軍に挟まれる、逃げ場のない状態に陥るわけですが、そのように導かれるのは主であると告げられたのです。それは主の圧倒的な栄光が現わされるためでした。一般大衆とは異なり、エジプトの軍人たちは、一連の出来事を歯がゆく思っていたかもしれません。自分たちなら勝利できると思っていたかもしれません。しかし、神の10の災いから民を守ることができなかったエジプト軍は、同様に、圧倒的神の力の前に、なすすべなく滅ぼされることになるのです。この経験は、これからカナンの地に入るイスラエルの民に、どのように強い敵が待ち構えていようとも、神様が必ず守り、うち破ってくださることを学ばせる目的もありました。

 

【水・信仰によって前進する】

 

後ろからエジプトの軍隊が追いかけて来たことを知ると、イスラエルの民は恐怖のあまり、「荒れ野で死ぬよりエジプト人に仕える方がましです」(1412)と言います。しかし、後ろに引き返すことはできません。信仰で前進するしかないのです。私たちの信仰の歩みも同様に、過去の生活に戻ってはならないのです。しかし、前は海です。どうしたら良いのでしょうか。モーセは民に答えました。「恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい。あなたたちは今日、エジプト人を見ているが、もう二度と、永久に彼らを見ることはない。主があなたたちのために戦われる。あなたたちは静かにしていなさい」(14 13節)。このとき、モーセはいくつかの重要なことを述べています。①「恐れてはならない」②「落ち着かなければならない」③「主の救い、主の戦いを見よ」④「静かにしている」ことです。私たちにもすべきことはあるでしょう。しかし、主が戦われる領域に入ったならば、つまり、自分たちにはどうすることもできなくなったなら、霊的眼を開いて、静かに主の戦いを見ることが重要なのです。この後、モーセが杖を高く上げ、手を海に向かって差し伸べると、海が真っ二つに分かれ、イスラエルの民は、その中を通って向こう岸に行くことができました。エジプト軍は後を追いかけて海の中に入ってきましたが、モーセが再び手を海に向かって伸ばすと、二つに分かれた水の壁が元に戻り、エジプト軍は波に飲み込まれてしまったのでした。ところで、この紅海の中を渡る行為は、霊的には、バプテスマを表していることが後に示されます(第一コリント102節)。

 

【木・モーセとミリアムの歌】

 

出エジプト記15章は、モーセの歌と呼ばれる箇所です。16節、711節、1216節の3つの部分からなり、その後1718節にエピローグが来ます。後の詩篇の神学的基準となったと言われています。特徴的なのは、「主・あなた」という言葉が三十回も繰り返され、自分たちの救いと解放は、すべて主の御業であるという告白がなされ、主をたたえていることです。そして、同時に、「主は私の~」という表現が繰り返され、主なる神様は遠い、漠然とした存在ではなく私と個人的な関係を築くべき方として描かれています。①主は私の力。単に漠然とした力ではなく、「わたし」の力であるという信仰が大切。②主は私の歌。賛美の対象。主を思うと、自然に賛美があふれてくる。③主は私の救い。世の力や富が力が救うのではなく、主こそ、私の救いなのです。④主は私の神。この方以外に私の神はいない。他のものを神としない。ゆえにわたしは、「主なる神をたたえ、あがめる」のです。


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