2025年安息日学校ガイド第2期
 「聖書の預言の学び方」

2025年3期8課「シナイでの契約」

【今週のテーマ】

 

今週は、シナイ山で与えられた十戒にまつわる学びです。

 

【日・シナイ山にて】

 

イスラエルの人々は、エジプトの国を出て三か月目に、シナイの荒れ野に到着します。モーセがシナイ山に上っていくと、主はモーセに、民に語るべき言葉を与えます。まず主が語るように言われたのは、彼らがエジプトで神がエジプト人にしたことを見たということ。そして、鷲の翼に乗せるようにして主のもと(シナイ)に連れてきたことでありました。つまり、これまで主が自分たちに何をしてくださったのか、それを忘れるなということです(出エジ193、4)。それに続いて、「今、もしわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るならば、あなたたちはすべての民の間にあって、わたしの宝となる。世界はすべてわたしのものである。あなたたちは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる」(同56節)と言われました。自分たちが、神のみ前に、どのような存在となるのかが明らかにされました。エジプトにおいて奴隷に過ぎなかった民が、神の宝、聖なる民となる。これ以上大きな希望と喜びに満ちた言葉はありません。それに対して民たちは、「わたしたちは、主が語られたことをすべて、行います」(同8節)と言います。神の恵みが常に先にあり、それに私たちは従っていくかどうかが問われるのです。

 

【月・賜物を受ける準備】

 

神は、シナイで律法を授ける準備として、イスラエルの民がなすべきことを具体的に指示されました。

「民のところに行き、今日と明日、彼らを聖別し、衣服を洗わせ、三日目のために準備させなさい。三日目に、民全員の見ている前で、主はシナイ山に降られるからである」191011

   民を聖別すること・・・これまで奴隷に過ぎなかったイスラエルの民が神の聖なる民として聖別される。

   衣服を洗うこと・・・神の御前に出るときの身の清めを象徴。外面的な清さは、神に対する献身の反映。

また、もう一つ重大な禁止事項が示されました。それは、「民のために周囲に境を設けて、『山に登らぬよう、また、その境界に触れぬよう』にすることでした。もしそれを犯すなら、「必ず死刑に処せられる」と言われました(191213節)。この厳しい命令は、神のみ前に、罪人がそのままの姿で近づくならば、神の「義と聖」のゆえに死ぬことになるということから来ています。罪と聖なるものとは、徹底的に相いれない関係にあるのです。そう思うと、キリストが「罪人の一人に数えられた」ということが、どれほどのことだったのかと思わされます。

 

【火・十戒という賜物】

 

十戒に対して、神の戒めを押し付けられているように考える人もあるかもしれませんが、十戒は、神からの賜物として人類に与えられたものです。もしなければ、法律のない国家のように、罪の歯止めがきかない無秩序な状態となってしまったことでしょう。十戒は私たちを守るためにあるのであり、神の愛とは何かを知るためにあるのです。それと共に、自分の罪深さを知り、キリストのもとへと向かうためにも機能しています。

(1) 人生のあらゆる状況において、神を第一にし、最優先することによって神を敬い、あがめること。

(2) 神の唯一無二の地位を尊重し、保持し、物理的、象徴的、霊的いかなる形であれ、神を偶像に置き換えないこと。私たちの最も純粋な愛情は主に属する。

(3) 神の名、つまりその名声やご品性をあがめること。

(4) 神の休息と礼拝の日、つまり安息日を尊ぶこと。

(5) 両親を敬うこと。

(6) 命を尊重すること。

(7) 結婚を尊重すること。

(8) 人々の財産を尊重すること。

(9) 他人の評判を尊重すること。

(10)利己的な欲望によって品性が損なわれないように、自分自身を尊重すること。

 

十戒の中心は「愛」です。それは二つの形であらわされおり、前半は神への愛、後半は人への愛となっています。神を愛すると言いながら、もし人を憎むことがあるのなら、それは十戒の教えに対し反しており、聖書はそのような人を、「いつわり者」(第一ヨハネ420)と呼んでいます。

 

【水・神の律法のさまざまな機能】

 

神が聖であり、義であり、善であられるように、神の律法もまた同様です。パウロは、「こういうわけで、律法は聖なるものであり、掟も聖であり、正しく、そして善いものなのです」(ロマ7:12)とはっきり述べています。聖であり、正しく、善いものである律法を行うことは、その人自身も、聖なる神の子とされている証です。この点に関して、ヤコブ12224節に次のように記されています。

「御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません。御言葉を聞くだけで行わない者がいれば、その人は生まれつきの顔を鏡に映して眺める人に似ています。鏡に映った自分の姿を眺めても、立ち去ると、それがどのようであったか、すぐに忘れてしまいます。」。

鏡にはありのままの自分が映るように、律法は生まれながらの罪深い私が映りだされます。例えば、鏡を見て、髪が乱れていることがわかっても、髪を整えることなく、鏡の前から離れれば、やがて髪が乱れていることも忘れてしまうことでしょう。それと同じように、律法に映し出された自分の姿に対し、律法を実践することによって正したり、整えたりすることをしなければ、やがて自分の罪深い姿を忘れてしまうことでしょう。しかし、逆に、律法という鏡によって映し出されたみじめな自分の姿に気づかされ、それを変えたいと望むなら、そのための道が供えられています。その道こそ、イエス・キリストなのです。

 

【木・神の約束としての律法】

 

パウロは、ローマ320節で、「律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされない…律法によっては、罪の自覚しか生じないのです」と言っています。この言葉からわかることは、律法が与えられたのは、それを守ることによって義とされるためではなく、むしろ逆に、罪の自覚を生じさせるためであるということです。では、罪悪感で私たちを苦しめるために律法が与えられたのでしょうか。もちろん、そうではありません。パウロは「キリストは律法の目標であります。信じる者すべてに義をもたらすために」(ローマ104節)と続けました。確かに、律法は罪の自覚を生じさせますが、それによって私たちをキリストに向かわせるのです。律法の目標・ゴールは、キリストなのです。そして、そのキリストを信じる信仰により、神の義がもたらされるのです。

 


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