2025年安息日学校ガイド第4期
 「聖書の預言の学び方」

2025年4期10課「真のヨシュア」

【今週のテーマ】

今週は、予型と対型の原則から、ヨシュアの生涯がキリストの予型であったということを見ていきます。

 

【日・聖書の予型論】

 

聖書の解釈法のひとつに予型論的解釈と呼ばれるものがあります。これは旧約聖書におけるある事がらが、何かを予型していると考えるものです。たとえば、聖所。これは天にあるものを予型しており、ヘブライ85で、「この祭司たちは、天にあるものの写しであり影であるものに仕えており」と表現されています。また、ローマ514では、「実にアダムは、来るべき方を前もって表す者だったのです」とあります。アダムは来るべき方、すなわちキリストを予型していたというわけです。アダムが罪を犯したために、アダムと同じような罪を犯さなかった人も等しく死が入り込んできたように、キリストの贖いにより、キリストと同じように神に従順に生きていない人の上にも、豊かな命が注がれることになりました。内容は全く逆なのですが、このような意味で、アダムはキリストの予型と言われているわけです。ダビデもまた、その生涯において、キリストの予型的要素がありました。ダビデは羊飼いであり、預言者であり、偉大な王であり、戦士でした。これらすべては、キリストにも当てはまります。詩編222節では、「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになるのか。なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず、呻きも言葉も聞いてくださらないのか」と歌っていますが、この言葉はキリストの十字架上での叫びそのものですし、イザヤ書111節では、「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで、その根からひとつの若枝が育ち」と、ダビデの父エッサイから一つの芽が生え、一つの若枝が育つと、キリストの降誕をダビデの誕生と結びつけています。

 

【月・予型と対型】

 

旧約の予型に対して、その予型された実態を対型と言います。この対型には、大きく三つの段階に分けられます。(1)キリストの生涯(2)教会の経験(3)時の終わりです。例えば、イスラエルの経験を見てみると、ホセア111節に、「まだ幼かったイスラエルをわたしは愛した。エジプトから彼を呼び出し、わが子とした」という、出エジプトの経験が記されています。この聖句を引用し、マタイ215節において、「ヘロデが死ぬまでそこにいた。それは、『わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した』と、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった」と、ヘロデ王に命を狙われた幼子イエスがエジプトに一時的に逃れ、ヘロデ王の死後、そこから戻ってきたときの経験を、イスラエルがエジプトから逃れた時の経験の対型として描かれています。また、ガラテヤ616節では、「このような原理に従って生きていく人の上に、つまり、神のイスラエルの上に平和と憐れみがあるように」と、教会を神のイスラエルと呼んでいます。さらに、黙示録74節では、「わたしは、刻印を押された人々の数を聞いた。それは十四万四千人で、イスラエルの子らの全部族の中から、刻印を押されていた」と、終末の特別な十四万四千人と、イスラエルを重ねています。このように、予型としてのイスラエルが、対型として、まずキリストに、次に教会に、そして終末時代へと、段階をおって当てはめられていることがわかります。対型として描かれていることの意味をより深く理解するためには、予型として表されているものにも目を向けることが重要であることがわかるでしょう。

 

【火・予型としてのヨシュア】

 

ヨシュアはモーセの後を引き継ぐわけですが、モーセはヨシュアを、「私のような預言者」(申命記1815)と表現しました。どちらも直接主から民を約束の地に導くようにとの召しを受けました。どちらも水が分かれて乾いた地を渡るという奇跡を経験しました。またどちらもカナンの地を前に偵察隊を送り、どちらも主の力が伴い、民たちの上に恐れが生じました。確かに、ヨシュアはモーセのような預言者でした。しかし、同時に、申命記3410節に、「イスラエルには、再びモーセのような預言者は現れなかった」とも書かれてあります。ヨシュアの人生は、モーセによってなされた預言の部分的な成就であり(18:1518)、究極的な意味において、この預言は、イエス・キリストによって成就されたのです。使徒737節に、「このモーセがまた、イスラエルの子らにこう言いました。『神は、あなたがたの兄弟の中から、わたしのような預言者をあなたがたのために立てられる。』と、申命記1815の言葉を引用し、イエス・キリストを表されています。このような流れから、モーセもヨシュアも、どちらもキリストの予型であったと言うことができます。

 

【水・対型としての真のヨシュア】

 

ヨシュアがキリストの予型であることを考えてみましょう。ヨシュアが行った戦争は、歴史的出来事であり、イスラエルの歴史の重要な部分を構成しています。これらの戦争の目的は、イスラエルの人々を約束の地に定

住させ、神の律法の原則に基づいた新しい社会を確立することでした。これに対して、イザヤ49:8に、「荒廃した嗣業の地を(神の民に)継がせる」と、メシアの働きをヨシュアの働き、すなわち嗣業の地を分配していく働きと重ねるように預言しています。キリストの公生涯を見ていくと、まずヨルダン川でバプテスマを受けられました。これはヨシュアがヨルダン川を渡った時のことを想起させます。その後40日間荒野で断食をし、苦しみを経験されます。これは荒野での40年間を想起させます。また、カナンの地を占領するためには、戦って勝ち取る必要がありましたが、その戦いは常に主の力によって勝利に導かれました。同様に、天のカナンに入るためにも戦いがあります。キリストは私達のために悪魔と戦ってくださったのです。死に至るまで忠実で従順に生きるお姿は、悪の力に対して戦われる神の戦士としての姿でもあったのです。そして、キリストの生涯と十字架上の死は、サタンを追い出して、神の民に対する霊的な敵を征服し、あがなわれた者たちに約束された嗣業の地、安息の地が現実したことを示していました。しかし、ヘブライ人への手紙37~11節にかけて、「今日、あなたたちが神の声を聞くなら、荒れ野で試練を受けたころ、神に反抗したときのように、心をかたくなにしてはならない…『彼らはいつも心が迷っており、わたしの道を認めなかった。』そのため、わたしは怒って誓った。『彼らを決してわたしの安息にあずからせはしない』と」とあるように、イスラエルの第一世代と同じ過ちを犯してはなりません。また、ヘブライ人への手紙41節で、「だから、神の安息にあずかる約束がまだ続いているのに、取り残されてしまったと思われる者があなたがたのうちから出ないように、気をつけましょう」と続くように、約束の安息の地が残されていることを信じ、希望を持ち、先頭を歩まれるキリストにしっかりと従っていきましょう。

 

【木・ヨシュアと私たち】

 

予型と対型の学びにおいて、対型はキリストにおいて成就するだけでなく、教会や終末に生きる人々にも当てはまることを学びました。予型としてのヨシュアも同様です。教会に対して、「最後に言う。主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい。わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです」(エフェソ610節)とあるように、ヨシュアの戦いは私達自身の戦いでもあるのです。また、「あなたがたは、御国を受け継ぐという報いを主から受けることを知っています。あなたがたは主キリストに仕えているのです」(コロサイ324節)、「あなたがたは、終わりの時に現されるように準備されている救いを受けるために、神の力により、信仰によって守られています」(ペトロ一15節)とあるように、天のカナンに入るのは、終わりの時なのです。


(C)2010 NAGOYA SDA CHURCH