| 2025年安息日学校ガイド第4期 「聖書の預言の学び方」 |
2025年4期2課「恵みに驚く」
【今週のテーマ】
今週は、カナン占領にあたって、ラハブとギブオン人が受けた主の恵みを学びます。
【日・二度目の機会】
ヨシュアは二人の斥候をシティムからひそかに送り出し、「エリコとその周辺を探れ」と命じました(ヨシュア2:1)。シティムとは、アカシアの木という意味のヘブライ語で、かつてこの地で、イスラエルの民はモアブの女たちと淫行し、異教の神々(バアル)を拝み、神に罰せられた苦い記憶の残る地です。その時、実に24000人もの人が命を落としたのです。今、そのシティムから密かに2人の斥候が、エリコとその周辺を偵察するために送られます。モーセの時も12人の偵察隊が送られましたが、その時は、「あの民に向かって上って行くのは不可能だ。彼らは我々よりも強い」(民数記13章31節)と報告したことによって、民の間に大きな恐れと不信仰を引き起こし、その結果、40年もの間荒野をさまよい、約束の地に入ることができなくなりました。神はもう一度、同じことをさせることによって、二度目のチャンスを与えられました。それはキリストを知らないと三度否定したペトロに、復活された主が、「私を愛するか」と同じ三度尋ねられ、「私の羊を飼いなさい」と言われて、二度目のチャンスを与えてくださったのと同じです。神は失敗した者にもう一度チャンスをくださる方です。それは神の恵みなのです。
【月・意外な場所の価値】
二人の斥候がエリコの町に入ると、遊女ラハブの家に泊まります。しかし、そのことがすぐに王の耳に入り、王はラハブのもとに人を遣わして、二人の侵入者を引き渡すように要求します。ところが、ラハブはこれに対して、「その人たちは出て行きましたが、どこへ行ったのか分かりません」(2:5)と嘘をつくのです。嘘も方便と言いますが、そもそも神は、私達の嘘の助けなど必要とはしておられません。しかし、彼女がとっさに嘘をついてまで二人を守ろうとした理由は、ヘブライ 11:31に、「信仰によって、娼婦ラハブは、様子を探りに来た者たちを穏やかに迎え入れた」とあるように、神を畏れる信仰から来ていました。神様はその点を見つめておられました。実は、エリコの人々は、イスラエルの民がエジプトを出たときのことや、主が葦の海の水を干上がらせたこと、またアモリ人の二人の王に対しシホンとオグを滅ぼし尽くしたことなどを伝え聞いていました。そのことによって、ラハブには主を畏れる信仰が生まれていたのです。彼女にとって二人の斥候をかくまうことは命がけのことでありましたが、それ以上に主なる神を畏れ、またその力を信じたのです。ラハブは2人の斥候に、「あなたたちの神、主こそ、上は天、下は地に至るまで神であられるからです」(2:11)とはっきりと語っています。また、ヤコブ2章25節では、「娼婦ラハブも、あの使いの者たちを家に迎え入れ、別の道から送り出してやるという行いによって、義とされたではありませんか」と書かれてあり、彼女の行為は神に義と認められたことが記されています。これは遊女のように罪深い生活をしてきた者であったとしても、正しい信仰を持ち、行動するとき、義と認められるという証でもあります。
【火・新たな忠誠】
ラハブは、2人の斥候に、「わたしはあなたたちに誠意を示したのですから、あなたたちも、わたしの一族に誠意を示す、と今、主の前でわたしに誓ってください」(2:12)と願います。誠意には誠意で答える。これは人間として当然の行為として受け止めることができるでしょう。しかし、この誠意(ヘセッド)という言葉には、慈悲や博愛、親切といった概念が含まれており、それはまさに神が私達に対して示して下さるものなのです。申命記7:12に、「あなたたちがこれらの法に聞き従い、それを忠実に守るならば、あなたの神、主は先祖に誓われた契約を守り、慈しみ〔ヘセッド〕を注いで(くださる)」と書かれてありますが、ここで慈しみを注ぐと訳されている言葉が、誠意(ヘセッド)です。神の誠意は愛と慈しみがあふれたものであり、私達が神に対して忠実であるかぎり、注がれ続けるのです。そこで二人の斥候はラハブに、「窓にこの真っ赤なひもを結び付けておき…一族を一人残らず家に集めておきなさい。」(2:18)と言い、真っ赤なひもが目印となって、イスラエルはそこにいる人の命を守ると約束しました。これは出エジプトの際に、鴨居の柱に羊の血を塗って守られた出来事を想起させます。
【水・相反する価値観】
アイが攻略されたと聞いたヘト人、アモリ人、カナン人などカナンの沿岸地方の各住民はイスラエルの強さに驚き、同盟を結び一致団結して戦おうとしました。しかし、その中のギブオン人は、周りの民と歩調を合わせず、イスラエルと同盟を結ぶことで助かろうと図りました。ある意味、ラハブのとった行動と似ています。しかし、根本的に異なる点がありました。それは、ラハブはイスラエルの神を畏れ、素直に神に服従する意志を示しましたが、ギブオン人はイスラエルをだまして同盟を結ぼうとした点です。彼らは使者を遣わすのですが、その際、カナン沿岸部に住む者だとばれないように、わざとぼろをまとい、ひからびたパンをもって、遠い国から何日もかけて来た者だと思わせ、同情を誘ったのです。また、遠い国の住人と戦うようにとは主から命じられていなかったこともあり、ヨシュアは彼らと和平を結ぶのです。後から、彼らの策略を知ることになりますが、主にかけて誓ったので、それを破ることはできませんでした。共同体の中からは指導者たちに対する不平ももれますが、ギブオン人が受けた恵みは大きく、後世の子孫にまで及んでいくことになります。
【木・驚くべき恵み】
イスラエルの指導者たちが立てたギブオン人に対する誓いにより、ギブオン人たちは守られ、家のための芝刈りと水くみに任命されたことで(ヨシュ 9:23)、イスラエルの礼拝共同体の重要な一員となります。その後のギブオン人の歴史は、神の民に対する彼らの忠誠を証明しています。たとえば、イスラエルの人々がバビロン捕囚から帰還したとき、ギブオン人はエルサレム再建を助けたと言われており、そのようなことの中にも表されています(ネヘ7:25)。神の究極の目的は、罪人を罰することではなく、彼らが悔い改め、神の慈悲を受けることです。他の部族がイスラエルに戦いを挑んできたのに対し、ギブオン人は策略を用いてでも和平を求めました。それは、神の慈悲、神の親切で公正な品性への訴え、悔い改めのしるしでもあったのです。神はそれを良しとされました。そもそもカナン人がイスラエルを通し主に滅ぼされることになったのは、単に、カナンの地をいたからではありません。かつて主はアブラハムにこう言いました。「よく覚えておくがよい。あなたの子孫は異邦の国で寄留者となり、四百年の間奴隷として仕え、苦しめられるであろう・・・ここに戻って来るのは、四代目の者たちである。それまでは、アモリ人の罪が極みに達しないからである」(創世記15:13~16)。つまり、彼ら自身の罪が招いたことだったのです。それに対して、ギブオン人は悔い改めて、主から赦しを得たということなのです。旧約聖書の神は残酷であるように感じることがあるかもしれません。しかし、常にそれは人間の罪が招くことであり、悔い改める者には常に赦しがあるのです。
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