2025年安息日学校ガイド第4期
 「聖書の預言の学び方」

2025年4期3課「恵みの記念」

【今週のテーマ】

 

今週は、ヨルダン川を渡る経験から学んでいきます。

 

【日・ヨルダン川を渡る】

 

二人の斥候がエリコの偵察から戻ってくると、「主は、あの土地をことごとく、我々の手に渡されました。土地の住民は皆、我々のことでおじけづいています。」(ヨシュア記224節)と報告します。なんと、力強い信仰の言葉でしょうか。民は、ヨルダン川を渡るために川岸に野営し、最後の準備をします。出エジプトの時は葦の海を渡りました。それは水のバプテスマ(洗礼)を象徴していましたが、ヨルダン川を渡ることも、何か霊的な意味を持っているのでしょうか。葦の海を渡るときは、追手のエジプト軍から命からがら渡っていきましたが、ヨルダン川を渡るにあたっては、自分たちが考えるタイミングと方法で渡ることは許されず、神の示されたタイミングと方法で渡らなければなりませんでした。まず三日待たなければなりませんでした。三日という期間は祈り備える期間でした。次に、契約の箱を先頭に2千アンマ(約900m)の距離を保たなければならないことを示されます。平時には、民の真ん中にあり主の臨在を表すべきものが、信仰の歩みにおいて、先に行かれるのです。私たちはともすると、主の先を行こうとしがちですが、主が私達の前を行かれるのです。さらに自分自身を聖別するように言われます。これは罪の悔い改めをあらわしており、また聖霊に満たされ、主に自らを明け渡すことを意味しています。これら一連のことは、神の子としての歩みは、バプテスマだけで完結するのではなく、その後の歩みにおいて、主に従って歩むことの大切さを教えており、そのために必要な聖霊の満たしを、ヨルダン川を渡ることが象徴しているのです。神の子の命を持ったあと、肉の歩みから霊の歩みに変えられていかなければならないということです。

 

【月・奇跡を起こされる生ける神】

 

「主は明日、あなたたちの中に驚くべきことを行われる。」(35)と言われました。驚くべきことと訳されている「ニフラオット」(「奇跡、不思議」の意)という言葉は、通常、神の力強い超自然的な業を指し、神の独自性を示します(詩編72:1886:10)。神に従って歩むとき、そのような神の奇跡を見ていく人生となります。そして、神はそのように歩んでくことを私たちに望んでおられるのです。民は言われたように、まず契約の箱を担いだ祭司たちが民の先頭に立ち、ヨルダン川に達します。ちょうど春の刈り入れの時期で、ヨルダン川の水はいっぱいに満ちていました。しかし、箱を担ぐ祭司たちの足が水際に浸ると、川上から流れてくる水は、はるか遠くのツァレタンの隣町アダムで流れがとまり、壁のように立ったのです。これはモーセの時に葦の海が分かれて壁となった出来事を彷彿させるものでした。これが主がなさった最初の驚くべきことでした。

 

【火・覚えておきなさい】

 

契約の箱を担いだ祭司たちが先に川の中に入り、水際のところに立ち止まると、川の水がせき止められ、壁のようになり、民たちは渇いたところを歩いて渡ることができました。水の中に立ち止まって、民が全員渡るのを見守っていた契約の箱を担ぐ祭司たちは、キリストを象徴していました。民がすべてヨルダン川を渡り終わったとき、主はヨシュアに「民の中から部族ごとに一人ずつ、計十二人を選び出し…ヨルダン川の真ん中の、祭司たちが足を置いた場所から、石を十二個拾わせ…今夜野営する場所に据えさせなさい」(423)と命じます。この十二の石は、神が奇跡をもって川を渡らせて下さったことの「しるし」(46)となるのでした。「しるし」というヘブライ語の「オット」は、先の「驚くべきこと」と訳された「ニフラオット」という言葉と関連づけられることが多く、神の奇跡は、神が生きておられることの「しるし」となるということです。この他にも、聖書の中には「しるし」が出てきます。たとえば、虹は契約の「しるし」(9:1213)ですし、イスラエル人の家の入り口の柱と鴨居に塗った血も、「しるし」と呼ばれています(12:13)。そして、安息日は天地創造と、神が聖なる者として下さることの「しるし」です(31:1317、エゼ20:12)。神は様々な「しるし」を、目に見える形で残し、いつも私達が神様の救いを思い起こせるようにして下さっているのです。また、十二の石は、「しるし」としてだけでなく、イスラエルの人々にとって「永遠の記念」となる(47)とも言われました。記念とは、忘れない、覚えているという意味から来ており、「永遠」という言葉がつくことで、神様がして下さった素晴らしい恵みと救いの業を、いつまでも忘れてはならないという意味が込められています。

 

【水・忘却】

 

「後日、あなたたちの子供が、これらの石は何を意味するのですかと尋ねるときには、子供たちに、イスラエルはヨルダン川の乾いたところを渡ったのだと教えねばならない」(42122)とヨシュアは語っていますが、ヨルダン川の底から拾い上げた十二個の石が、後世の人々にとって、神の奇跡によってヨルダン川を渡ったことが真実であることの「しるし」となるということは火曜日のところでお話しましたが、ともすると人間は、過去とのことを忘れてしまうものです。しかし、主は、ご自分が人のためにされたことを、何一つ忘れてはならないと、しかも、実際にそれを経験していない後世の人たちに対しても、同様のことが求められるのです。「それは、地上のすべての民が主の御手の力強いことを知るためであり、また、あなたたちが常に、あなたたちの神、主を敬うためで」(424)とヨシュアは語っています。ところで、ヨシュアの言葉を注意深く見ていくと、「あなたたちの神、主は、あなたたちが渡りきるまで、あなたたちのためにヨルダンの水を涸らしてくださった。それはちょうど、我々が葦の海を渡りきるまで、あなたたちの神、主が我々のために海の水を涸らしてくださったのと同じである」(423)と表現されており、葦の海を渡ったときの主語は「我々」と表現され、ヨルダン川を渡ったときの主語「あなたたち」と表現されています。つまり、出エジプトを経験した第一世代の人々と、経験していない次世代の人たちを分けていることがわかります。しかし、葦の海の中を渡ることも、ヨルダン川を渡ることも、同じであると言うことで、同じ神への信仰へと引き上げています。現代生きている私達にとっては、なお一層、遠い話なのですが、しかし、同じ神の力が今も働いていることを認識していくとき、大きな力となるのです。

 

【木・ヨルダン川を越えて】

詩編66:6においても、「神は海を変えて乾いた地とされた。人は大河であったところを歩いて渡った。それゆえ、我らは神を喜び祝った」と、葦の海を渡った出来事と、ヨルダン川を渡った出来事を一つにして描いています。両者は切り離せないということです。また、これらの経験は、単に水を渡るだけでなく、前者は奴隷状態から自由へ、後者は、土地なき放浪状態から国家へと、イスラエルの状態の変化を意味していたという共通点があります。新しいステージに進むにあたって、神の大いなる導きと救いの体験が伴ったわけです。私達も、水のバプテスマと霊のバプテスマの経験が与えられています。両者は切り離せないものであり、どちらも同じ霊的な経験であり、新しいステージへの幕開けとなります。


(C)2010 NAGOYA SDA CHURCH