2025年安息日学校ガイド第4期
 「聖書の預言の学び方」

2025年4期4課「あらゆる争いの背後にある闘争」

【今週のテーマ】

今週は、イスラエルのカナンでの戦いは、天で始まった戦いであり、その背後には神と悪魔の戦いがあることを学びます。

 

【日・主の軍の将軍】

ヨルダン川の西側にいるアモリ人の王たちと、沿岸地方にいるカナン人の王たちは皆、主がイスラエルの人々のためにヨルダン川の水を涸らして、彼らを渡らせたと聞いて、心は挫け、もはやイスラエルの人々に立ち向かおうとする者はいなかったと記されています(ヨシュア51)。イスラエルは心理面において、すでに圧倒的有利な状況にすでにありましたが、さらに彼らに勇気を与える出来事が起こります。ヨシュアの前に、抜き身の剣を手にした一人の男が突如現れ、「わたしは主の軍の将軍である。今、着いたところだ」(5:14)と告げたのです。この抜き身の剣を手にするお方は、「あなたの足から履物を脱げ。あなたの立っている場所は聖なる所である」(5:17)と言われたことからも、受肉前のイエス・キリストであったことがわかります。主の存在はヨシュアを励ましただけでなく、このカナン占領の戦いは血肉の戦いを超え、霊的戦いであることを教えていました。ちょうどそれは、かつてエリシャの従者たちの目に、「火の馬と戦車がエリシャを囲んで山に満ちていた」(列王記下6:17)のが見えたように、圧倒的な神の力をもってカナンを占領できるのだという確信を与えるものとなったのでした。

 

【月・天における争い】

主の軍の将軍として、受肉前のキリストが来られたということによって、カナン占領に伴う戦いが、より大きな争い、すなわち天で起こった戦いの一部であることを暗示していました。この天で起こった戦いについて、黙示録12章7~9節にかけて、次のように記されています。

「さて、天で戦いが起こった。ミカエルとその使いたちが、竜に戦いを挑んだのである。竜とその使いたちも応戦したが、勝てなかった。そして、もはや天には彼らの居場所がなくなった。この巨大な竜、年を経た蛇、悪魔とかサタンとか呼ばれるもの、全人類を惑わす者は、投げ落とされた。地上に投げ落とされたのである。その使いたちも、もろともに投げ落とされた」。

天で起こった戦いの舞台が地上に移されたことがわかります。私達はいやおうなしに、この戦いに巻き込まれているのです。カナンに入るための戦いは、霊的に、私達が天のカナンである天国に入るための戦いを象徴しています。悪魔は私達が天国に入ることのないように攻撃してきます。この攻撃に対して、私達はあまりにも無力で、自分の力では勝利することができません。だから、主なるキリストが戦ってくださるのです。これは単なる比喩ではなく、目に見えない世界で、実際に戦いが行われているのです。ダニエルが必死に祈っているとき、目に見えない世界で何が起きていたかが明らかにされています。

ダニエル書1012、13節「ダニエルよ、恐れることはない。神の前に心を尽くして苦行し、神意を知ろうとし始めたその最初の日から、お前の言葉は聞き入れられており、お前の言葉のためにわたしは来た。ペルシア王国の天使長が二十一日間わたしに抵抗したが、大天使長のひとりミカエルが助けに来てくれたので、わたしはペルシアの王たちのところにいる必要がなくなった」

このようにダニエルが祈ったとき、天使がすぐに助けようとダニエルのもとに向かうと、それを妨げようとペルシア王国の天使長として描かれている悪魔・悪霊が21日間もその天使に抵抗したのです。しかし、そのとき黙示録の天の戦いの場面でも登場したミカエルが助けにやってきたので、その天使はダニエルのもとに来ることができたと記されています。ミカエルとは、神のようなお方はどなたかという意味のヘブライ語で、実は、このミカエルこそ、受肉前のキリストだったのです。

 

【火・「主こそいくさびと」】

「主こそいくさびと、その名は主」(出エジプト153節)と、モーセとイスラエルの民は、エジプトから脱出したあと歌っています。主は確かに、民のためにエジプト人と戦ってくださいました。イスラエルにとって、まさに「主こそ、いくさびと」でありました。そして、主なる神は、エジプト人と戦って脱出させてくださったのと同様に、これからカナン人と戦い、カナンの地をイスラエルの民に与えようとしておられました。しかし、イスラエルは正しく、カナン人は悪だから、主は彼らと戦って滅ぼされるのではありません。主は、申命記9章で、「あなたの神、主があなたの前から彼らを追い出されるとき、あなたは、「わたしが正しいので、主はわたしを導いてこの土地を得させてくださった」と思ってはならない。この国々の民が神に逆らうから、主があなたの前から彼らを追い払われるのである」(9:4)と繰り返し告げています。そして、ただ、「アブラハム、イサク、ヤコブに誓われたことを果たされるのである」(9:5)と続けています。このカナン占領とカナン人の根絶を理解するためには、善と悪との大争闘という全宇宙視点に立つ必要があります。そのとき見えてくるのは、ただ神の恵みと憐みのゆえにカナンに入ることのできたイスラエルの民と、不信仰と罪のゆえに、神の憐みを受けることなく滅んでいったカナン人の姿です。創世記1516ではカナン人の罪が極みに達するまで、主はカナン占領を待たれることが記されています。つまり、カナン人の滅亡は、神の最後の審判の予告として捉えられることができるのです。

 

【水・主があなたたちのために戦われる】

主が私達のために戦われるとき、私達がしなければならないことは何でしょうか。出エジプトに際して、主は、「『恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい。あなたたちは今日、エジプト人を見ているが、もう二度と、永久に彼らを見ることはない。主があなたたちのために戦われる。あなたたちは静かにしていなさい』」(14:1314)と言われました。つまり、私達は何もしないで、主の戦いを静観することが求められていることです。現実問題として、イスラエルにできることは何もありませんでした。カナン征服においても同様でした。エレン・ホワイトはこのことを、神が、「戦争によってではなく、従順と神の命令への無条件の服従によって彼らが約束の地を獲得することを意図された」と解説しています。このことから学ばなければならないことは、永遠の御国に救われることに関しても、私達にできることは何もないということ、そして、ただ主を信じ、主の救いを見ることだけが求められているということです。

 

【木・次善の策】

出エジプト記17章にイスラエルの民がアマレク人と戦ったことが記録されています。これまで、他民族と戦うことなく、ここまで来ましたが、ここにきてアマレク人と戦うことになったのはどうしてでしょうか。この直前、荒野で水の問題が発生していました。民は水がないとモーセに不満をもらしていました。それどころか、エジプトから脱出したことさえ、疑問を呈する始末です。アマレクがイスラエルと戦うためにやって来たのは、そんな時でした。これは偶然ではありません。神は、アマレク人がイスラエルを攻撃することを許され、彼らが再び神を信頼することを学ぶようになさったのです。興味深いのは、モーセが両手を挙げて祈っている間は、イスラエルが優勢となり、腕が下がってくると劣勢となったことです。そこでアロンとフルがモーセの腕を支え、アマレクとその民を剣にかけて打ち破ることができました。これはイスラエルの戦いの背後に、常に神の守りがあることを教えています。また、この戦いにおいて陣頭指揮をとったのがヨシュアでした。ヨシュアにとって、この経験はカナン攻略でも生かされたことでしょう。ヨシュア記6章を見ると、主に命じられた通り、城壁の周りを一日一周周り、七日目には7週回って時の声を上げると、城壁が崩れ、一気にエリコを攻略することができたのでした。まさにそれは神の力の表れでした。


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