2025年安息日学校ガイド第4期
 「聖書の預言の学び方」

2025年4期9課「約束の相続人、希望を抱く捕らわれ人」

【今週のテーマ】

 

今週は、カナンの地が神様との契約に基づく、神様からの賜物であったことを学び、私達の天のカナンへの旅についての理解を深めていきます。 

 

【日・エデンとカナン】

 

エデンの園と約束の地カナンは、つながりがあります。神様はアダムを創造されたとき、住む場所としてエデンの園が与えられました。エデンの園には人間が住むのに最適な環境がすべて整えられており、園の中央には『命の木』があって、その実を食べると永遠に生き続けることができるのでした。ところが、その中央にもう一本、『善悪を知る木』があり、その実からは決して取って食べてはならないと命じられていました。しかし、アダムはその命令を破り、取って食べてしまったために、エデンの園を追い出されることになってしまいます。それは、『命の木』の実を取って食べ、永遠に生き続ける罪人とならないためでした。エデンの園は神様の戒めを守っているかぎり、アダムはいつまでもそこで生活することをできましたが、神様の戒めを破ったとき、追い出されることとなったのでした。約束の地カナンも同様に、それは神様がイスラエルの民に与えられたものでした。エジプトで400年間奴隷だったときも、カナンは約束の地であり続けました。彼らはその土地を所有していたわけではなく、相続財産として持っていたわけでもありませんでしたが、神様の恵みによってイスラエルに与えられるのでした。その意味では、彼らは約束の地の相続人でした。しかし、神様の戒めを破った結果、アダムがエデンの園を追い出されたように、神様に聞き従わなければ、カナンの地を失う可能性もありました。つまり、カナンは、神様との契約関係の中で、条件付きで与えられたということです。いま私達はさらに勝る相続地として天のカナン、天の故郷に向かっての旅を続けています。それはエデンの園や地上のカナンと同様に、神様の恵みとして与えられるものです。決して私達の功績によるのではありません。私達に求められるのは、ただ、神様を畏れ敬い、その戒めに聞き従うことです。罪を犯してしまった場合は、それを素直に認め、主に告白することが大切です。こうして、幼子のような心をもって、神様への信仰に生きていくのです。

 

【月・賜物としての土地】

 

イスラエルの民にカナンの地が与えられたことによって、奴隷時代や荒野をさ迷っていた時とは異なり、生活が安定していきました。自分たちが生きていく土地があるということは、民たちに物理的なアイデンティティーを生み出しました。国を持たない世界最大の民族として、クルド人がいます。自分たちの土地を持たないということがどのようなことなのか、日本人の私達が理解することは簡単ではありません。学生時代、一年間学生宣教師として韓国で生活したことがありました。生活していくうちに、韓国での生活にも慣れては来ましたが、しかし、常に、自分の国ではない国に住んでいるという思いが無意識のうちにあり、それは目に見えないストレスとなっていたようで、手のひらの皮がぽろぽろとむけてしまう症状が現れたのです。帰国後、皮膚科に行くと、お医者さんからはストレスですねと言われ、日本での生活に戻ってしばらくすると、手のひらは、何もなかったようにきれいになったのでした。イスラエルの民のアイデンティティーは、カナンの地と強く結びついていったのは当然のことでした。同様に、神の民の本当の住まいは天にあることを自覚するとき、そこに神の子としてのアイデンティティーが生まれます。どこの国であろうと、この世は安住の地ではないのです。そして、重要なことは、詩編241に、「地とそこに満ちるもの、世界とそこに住むものは、主のもの」とあるように、すでに述べたように、イスラエルに与えられた地上のカナンも、私達に与えられる天のカナンも、神様から賜物であるということです。民は神様と契約関係にあり、契約の戒めを守る限り、その土地を所有することができましたが、神様との契約を破り、神の祝福を失えば、土地とその祝福をも失う可能性があったのでした。実際、バビロンによって滅ぼされたのは、それがためでした。

 

【火・土地の課題】

 

ヨシュアが多くの日を重ねて老人となったとき、主は彼に、「あなたは年を重ねて、老人となったが、占領すべき土地はまだたくさん残っている」(ヨシュア131)と言われました。マナセの半部族とルベン族とガド族は、ヨルダン川の東側に、モーセが与えた嗣業の土地を既に持っていましたが、残り九つの部族とマナセの半部族はまだでした。彼らはヨルダン川の西側を嗣業の地として受け取ることになるわけですが、ヨシュア記の132節から6節にかけて、その残っている土地のことが記されています。まだずいぶんと多くの土地を勝ち取っていかなければならないことがわかります。しかも、それは広大であるだけでなく、堅固な城塞に囲まれた場所もあり、エジプトでさえも、攻略を試みましたが、攻め落とすことができませんでした。そのような場所が残っていたわけです。そして、そのように主がヨシュアに言われた際、「あなたは年を重ねて、老人となったが…」と言っています。いくら信仰の人とはいえ、老人に対してあまりにも酷な話のようにも感じます。もちろん、人間の力によってそれをなすのだとすれば酷なことでしょう。しかし、それはすべて、主の力によってなされていくことをヨシュアは知っていました。「第三の人生」という上智大学のアルフォンス・デーケン教授が書いた本の中に、実に興味深いことが書かれています。「人間が一生涯で発揮する力は、その持っている力のたかだか10%程度にすぎず、残りの90%は眠ったままで使われずにほとんどの人がその一生を終えていきます。しかし、老年期こそその90%の部分に手がつけられ、大いなる可能性が開花する時です。というのは、若い時にはどうしても自分の意識的な働き、自我が全面的に出てしまうため、この力を発揮することができにくいが、老人になると、体力が失われ、自分の限界に気づくようになるので、そうした無意識の部分が開発されやすくなるのです。しかも若い時には、どうしても自分の願望や欲望に振り回されて、ほんとうに大切な事柄に集中できない傾向がありますが、老年期においては、大切な事柄に集中して取り組むことができるゆとりが生まれるのです。更に、若い時にはどうしても自分の力により頼みがちになるために、ほんとうの意味で神に信頼することができにくいが、しかし、自分の力の限界をわきまえるようになる老年期には、真実な神への信頼や、ゆだねることが可能になるのです。かくして老年期に近づくほど、残された90%へのチャレンジの道が開かれてくるのです」。晩年のヨシュアはますます主に信頼していったことでしょう。そして、ヨシュアに導かれた若い世代の者たちも、ヨシュアのように主に100%信頼していくことによってカナンの残りの土地を占領することができることを実体験を通して学んでいったのでした。

 

【水・ヨベル】

 

カナンの地は神様の恵みによって与えられたものであることを忘れないために、7年ごとに畑の土地を休ませる安息年と、安息年が7回巡った次の年、つまり第50年目のヨベルの年がもうけられました。安息年は、土地を休ませるため、種をまくことはできませんでしたが、そこから自然に生えてきたものは土地の所有者だけでなく、だれでも食べて良いとされました。またヨベルの年は、安息年と同様に、土地を休ませなければならないのと同時に、何らかの事情で土地を売らなければならなくなった人が買い戻したり、経済的な余裕がない場合は、無償で売主のもとに返されたりしました(レビ記251033)。これらの決まりは、すべての土地は神に属するものであり、神様の恵みとして与えられたことを教えるのでした。安息年で1年休耕させる場合(ヨベルの年は2年連続)、神様はそれまでの間に、休耕分の収穫を得ることができるようにしてくださいました。このことを通して、土地は神のものであり、その地の収穫も主の恵みによるものであることを知ることができました。さらに、「七年目ごとに負債を免除しなさい」(申命記151)、「六年間奴隷として仕えたならば、七年目には自由の身としてあなたのもとを去らせねばならない」(申命記1512)などと命じられ、主がカナンを恵みとして与えてくださったように、その主の恵みを受けたものたちは、弱い者に対して同じように恵み深くあるようにと教えられたのでした。

 

【木・回復された土地】

 

バビロン捕囚の経験は、イスラエルにとってカナンの地が自分たちのものではなく、神様との契約関係において、条件付きで神様から与えられたものであったことを再認識する苦い経験でした。主はエゼキエルにエルサレムの神殿の中で行われているおぞましい偶像礼拝や、安息日を汚す行為を示されました。人々は些細な事と考えていたようですが、神様は決してそうは思ってはおられませんでした。神殿から神様が去られるのをエゼキエルは見ました。その後、まもなくしてバビロンによって壮麗な神殿も、エルサレムの町々も破壊されていき、イスラエルの民は約束の土地を失ってしまうのでした。しかし、神様は民を見捨てられたわけではありませんでした。70年の捕囚というのは、彼らが真に悔い改め、もう一度、主に立ち返るときであったのです。また、このことが起こる前から預言者エレミヤはすべてを見せられており、「主はこう言われる。バビロンに七十年の時が満ちたなら、わたしはあなたたちを顧みる。わたしは恵みの約束を果たし、あなたたちをこの地に連れ戻す」(エレミヤ書2910節)とはっきりと主の言葉を語っていました。エゼキエル書3714節で、「また、わたしがお前たちの中に霊を吹き込むと、お前たちは生きる。わたしはお前たちを自分の土地に住まわせる。そのとき、お前たちは主であるわたしがこれを語り、行ったことを知るようになる」と主は言われる」と預言されています。つまり、バビロンからエルサレムへ帰還するために求められたのは、真に悔い改めて、主の霊によって生き返る、すなわちリバイバルすることでありました。このことを踏まえると、天の住まいに帰ろうとしている私たちに必要なものも、真の悔い改めと真のリバイバルであることがわかります。


(C)2010 NAGOYA SDA CHURCH